福田恆存は、あえて「理想」を遥か遠く手の届かない場所に置き、そうすることで「現実」の相対性に処することを教えてくれる人間である。だからわたしは福田の文章を読むと不思議な心持ちになる。落ち着き、同時に高揚するのである。おそらく、その現実的な生きかたに安心を感じ、高邁な理想に気分が溌剌とするのであろう。
そういう意味では『文藝批評の態度』は、福田恆存の文藝批評家としての理想表明であると読める。福田は問う。いまだ確立されていない文藝批評が一つの独立したジャンルとして確立するために必要なものはなんであるか、と。
では、そのジャンルとしての確立のために必要なことはなにか。
つまり、文藝批評というものが一つのジャンルとして確立を目指すならば、それを一つの生き方までにする人間が出てこなければならないということだろう。それも一代ではなく、系譜としてである。
では、文藝批評家たるものは如何なる人間であるか。福田は言う。
福田は、それ以前に、ジャンルとしての近代小説の方法に疑惑の念を感じた批評家の例として、北村透谷や生田長江の名を挙げる。またその疑惑をはっきりと不信にまで意識した人間として、小林秀雄、保田與重郎の名を挙げる。
福田によれば、批評家の背後にある生活と作家や作品とが対決する場所に「批評の実感」が成立する。
批評家の理想は、作品を育て、作家の意思を継ぐことである。そしてその先に、自ずと現われるものこそ、自我である。その表現を成した時、初めて文藝批評がジャンルとして確立しうる。
そういう訳で「批評家はまづなによりも名文家たらねばならない」。なぜなら、「論理はたんに証明するにすぎないが、名文は造型する」からだ。これは福田が生涯保持した理想であろう。