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エッセイ

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人生の話、フリーランスの話、広告コピーの話まで。TAGOの日々のできごとや考えを綴った文章。
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海の宝石を求めて(翡翠を探す旅 part3)

「ああ、糸魚川にいきたい」 頭の中で、何度も何度も その言葉が繰り返されていた。 2022年冬のことである。 数ヶ月前に糸魚川で 1週間という贅沢な時間を 過ごしたばかりではあるが、 私は相変わらず翡翠のことばかり考えていた。 新潟の人はいいなあ。 東京には翡翠海岸がない。 東京にはフォッサマグナミュージアムがない。 東京には自宅から1時間以内に糸魚川がない。 冬の北陸は雪国になる。 わが愛車のサマータイヤでは危険だ。 翡翠シーズンは冬なのに。 ジレンマとの戦いが

ついに出会えた。(翡翠を探す旅 part2)

たまたまタイムラインに出てきて この記事を開いたあなた。 糸魚川に行きたくてウズウズしていて、 少しでも翡翠拾いの気分を味わいたいと 検索でたどり着いたあなた。 ようこそ。 翡翠を探す旅、2回目である。 1回目を読んでいない方はわからないと思うので、 一応、リンクを貼っておく。 ヒスイ海岸って何? という人のために、 簡単な説明も入れておくことにする。 2022年10月。 1回目の糸魚川上陸(2022年8月)から 3ヶ月も経たないうちに、 私はふたたび糸魚川に向かった。

40超えたおっさんが、フリーランスになってから見えた5つのこと。

あの、シュノケリングってやったことありますか? 自分も何度か経験あるんだけど、ダイビングスポットの海で水中メガネかけて海の中のぞいたら、鳥肌立つくらいきれいなんだよね。 地上からエメラルド色の海面を見るだけでも「きれい〜」ってなるけれど、その内側(海の中)を見たら「きれい〜」どころではない。 熱帯魚と海草たちがリトルマーメイドのアンダーザシーを合唱している。そしてニモをファインディングできるかもしれない。 えっと、何が言いたいのかっていうと、この世界は中をのぞいてみな

ヒスイ海岸で見つけたもの、大公開! (翡翠を探す旅)

まず最初に言っておきたい。 この記事は、 いい年したおっさんが 少年にもどる話である。 いきなりだけど、 みなさん、「翡翠(ヒスイ)」に どんなイメージを持ってるだろうか。 私の場合、もともと 「地味な緑っぽい石」だった。 でも今では「最も魅力的な石」になった。 翡翠は宝石の一つで、 2016年に日本鉱物科学会より 「日本の国石」として選ばれた石だ。 写真ではわからないが、 透明感のあるツルツルの表面には、 宝石らしく結晶がキラキラと輝いている。 白と緑の混ざったも

いま、どこに立っている?

家にいる。家にいすぎである。見え方によってはひきこもりである。それは僕だけじゃないはずだ。え、あなたは引きこもってない? ああ、そうですか。失礼しました。 相変わらずウイルスが猛威をふるっている。気軽に出かけられるような状況ではない。万が一感染したら家族に迷惑がかかる。 その他にも、外出しない理由が揃いすぎている。2月の屋外はめちゃ寒いし、これから花粉も飛びそうだし、出かけたら無駄なお金を使いそうだし、そもそも自分は自宅事務所のフリーランスだし、仕事の打ち合わせは9割リモ

ああ、そうか。書けなくなるのは、きっと代わり映えのない日常で生きてるからなんだ。

書ける。自分は書けるはずなんだ。 そんな呪文をぶつぶつ唱えても、いざキーボードに指を乗せてみたらぜんぜん進まない。なぜだろう。「なぜ」なんて疑問形でしらばっくれてみたけれど、その原因は薄々わかっていたりする。 人を惹きつける文章を書く人は、人を惹きつける生き方をしている人でもあることが多いように思う。つまり、彼ら彼女らは普段から高い意識を持って日々を気張って活動的に生きているからこそ、日常をそのまま文章にしても素敵に仕上がるんだよね。 比べるのは良くないんだけども、そう

転職活動で祈られすぎて、「神」になったヤツがいる。それは私だ。

かつてこの国の転職には、30歳限界説と35歳限界説があった。 30歳を境に未経験の職種や業界への転職が難しくなり、35歳を境に同業界での転職が厳しくなるという説である。(過去の話ではなく現在進行形の話かもしれない) 私が30代だった当時、そんな話がネットや雑誌などでしばしば語られていた。29歳や34歳あたりのギリギリラインにいる社会人たちは、焦燥感に苛まれて必死に履歴書を書きまくっていた。キャリアアップや報酬アップなどの呪文をブツブツ唱えながら条件の良い求人情報を果てしな

「あの人とは合わないかも」も、「あの人のこと好きかも」も、一人になった時に浮かび上がってくるよねって話。

少なくとも自分はそういうタイプだ。あなたはどうだろう? フリーランスで仕事をしていると、初対面の人と打合せなどを一緒することが頻繁にある。打ち解けるまでは、お互いでお互いを探り合っているような距離感が続いたりする。視線。会話のリズム。会話の間。話への耳の傾け方。相槌の打ち方。沈黙への対処。会話のやりとりをしている内に少しずつ相手の雰囲気や人となりがわかってくるが、結局相手のことをはっきりとつかみきれないままお開きになることも多い。(実際はそんな細かいところまで意識してないけ

えっ、嘘だろ。世界的なアレに、わたしのアレが映っているぞっ!的なやつ

言うべきかどうか迷っていたんですが、 言うことにします。 ずっと口を閉ざしていたんですが、 そろそろ言ってもいいかなと思いました。 やっとそんな心境になれたというか。 映っているんです。 はっきりと映っているんですよ。 あれが、あれに。 ガチでモロです。 tagoの家がですね、 あの世界で人気の国民的アニメに 出てくるんですよ。 ・・・シーン あ、帰らないでください。 まだ話は終わっていません。 ここで帰っちゃったら モヤモヤが残ったまま消化不良になり、 今夜

偶然のひとときを、最高のひとときにする。

「反応がない」 文章をはじめ漫画やアートや音声や動画など自分の作品を発表している多くの方が一度は感じたことがあるのではないでしょうか。ぼくもそうです。今日はこの件について、コピーライターの視点で書いてみようと思います。 (この記事は、誰かに読んでもらうためではなくて、ただ自分が書きたいから書いている方には関係のない内容です) ぼくが仕事で携わっている広告なんて無視されて当たり前の世界で、“情報のゴミ”のような扱いを受けることだってしばしばあります。例えば、YouTube

エッセイは3割増しで書かれている、という説。

誰かのエッセイを読んだ後、 気分が上がるどころか、 逆に沈んだことはないだろうか。 ああこの人は自分が持っていないものを沢山持っているなあ、こんなすごいの自分には到底書けない、ネタにできるような人生経験がない、面白くおかしく感動的に語れるようなセンスや文章力もない、誰かの悩みや社会課題を解決するような知識もアイデアもない、軸となる思想もない、自分には何もない・・・・・・そんなふうに思ったこと、ないだろうか。 隣のエッセイは青く見えるんだよね。 でも、そのエッセイ、めちゃ

一歩目をためらわせる「小説」は、構えずに入っていける「エッセイ」にタイムラインで勝てるのか。

勝てない。たぶん。 小説は「読もう」と構えなきゃ読まない。エッセイは構えずに入っていける気がする。うん、これは僕の個人的な感覚なんだけどね。 事実として、ここnoteでは、小説よりエッセイの方がスキの数が伸びる傾向がある。数字で明らかな差が出てるんだよね。 なぜやろか。興味をそそられつつも、タイムラインに並んでいる小説を気軽にポンとクリックできないのは。 まず、これは僕の仮説だけども、人間の脳(心)は、虚構よりリアルの方が受け付けやすい性質を持っているのではないだろう

「コンテスト」という魔物

コンテストは残酷だ。 選ばれる人がいるということは、当然ながら選ばれない人もいる。しかも、選ばれない人の方が圧倒的に多い。応募総数に対して受賞数はほんの一握り。応募者のほとんどが審査結果で希望が打ち砕かれるシステムになっている。 にも関わらず、多くの応募者が結果発表までの間、「私受賞しちゃったらどうしよう・・・・・・」と心配したり、「俺いける気がするねん」などと期待に胸をふくらませて待っていたりする。 ひどい人なんて、受賞した後の華やかなステージに立つ自分を妄想して一人

初心者が1年間で短編小説100作品を書けた理由。

想像もつかなかった。 小説を書いた記憶といえば、今から15年くらい前に少し通っていた芥川賞作家の小説教室で提出した数作品だけ。そんな数えるほどしか書いたことのない小説初心者の自分が、1年間で100作品もの短編を書くことになるなんて。 これから書く話は、何年も書き続けている手練れの書き手や文学賞を目指すレベルの方の参考にはなりませんが、僕のような駆け出しの人が続けていく上ではちょっとだけ参考になるかもしれません。 初めてnoteに小説を投稿したのは、2019年4月23日。