「あの人とは合わないかも」も、「あの人のこと好きかも」も、一人になった時に浮かび上がってくるよねって話。
少なくとも自分はそういうタイプだ。あなたはどうだろう?
フリーランスで仕事をしていると、初対面の人と打合せなどを一緒することが頻繁にある。打ち解けるまでは、お互いでお互いを探り合っているような距離感が続いたりする。視線。会話のリズム。会話の間。話への耳の傾け方。相槌の打ち方。沈黙への対処。会話のやりとりをしている内に少しずつ相手の雰囲気や人となりがわかってくるが、結局相手のことをはっきりとつかみきれないままお開きになることも多い。(実際はそんな細かいところまで意識してないけど)
そして、帰り道で一人思う。「感じのいい人だったなあ」とか、「ちゃんと自分の話に耳を傾けてくれる人だったなあ」とか、「最後に少し見せてくれた笑顔うれしかったなあ」とか、断片的な印象が頭の中でふわふわする。
一人になってからじわじわと浮かび上がってくる相手への印象や感情は十人十色だ。初対面の人だけでなく、何度か会ったことがある顔見知りの人と初めてじっくり話した場合にも当てはまる。「あの人と喋っている時の自分って結構テンション高いな」「あの人と一緒にいるのは居心地がいい」「誤解されやすいタイプかもしれないけど実はいいヤツなんだよな」「どうでもいい友達の一人だったけど、なんか印象変わった」なんていう好印象から、「なんとなくウマが合わねえな」「思ってた感じじゃなかった」なんていう悪印象もあるはずだ。
一緒にご飯を食べている時、電話で話している時、ズームで会議している時、その最中はそこまでの感情には至っていないが、別れた後、電話を切った後などに人間はいろいろと考え始めるのである。翌日も、その翌日にも余韻のように残っていく。当たり前の話といえばそれまでだけど。
とにかく後からジワジワくるのだ。略して「あとじわ」。この状況を表す言葉が見当たらなかったので勝手に名前をつけてみた。天ぷらの「あとのせ」みたいだが、決してふざけているわけではない。この「あとじわ」、実はその後の人生を左右するような分岐点になることも多い。
例えば、恋愛でもこんな仮説が立てられる。恋の多くが「あとじわ」から始まるのではないか。異性として意識し始める瞬間にボワッと生まれる小さな炎。その炎の燃料はきっとあとじわである。
一人でいる時に、ふと気づく。
「好きかも。これって恋かも・・・」なんて。
あとじわは放っておくとどんどん止まらなくなる。取り返しが付かなくなる。各駅停車の電車を待っている時も、学校や会社のトイレでウンコしてる時も、コンビニでスイーツを選んでいる時も、じゃがいもを包丁で切っている時も、ベッドで仰向けになっている時も、その人のことを考えている。そうやって炎を燃えたぎらせていく。
人間は複雑にできている。だからみんな悩む。「あの時彼女はなんであんな顔をしたんだろう」「今日の彼はいつもより笑っていなかったなあ」「あんな素敵な人なのにまわりが放っておくわけがない」なんて。
あとじわは、一生を共にするパートナーとの縁を引き寄せてくれるかもしれない。あとじわを燃料にして恋の暴走列車が走り出す。(恋の暴走列車なんていう超絶恥ずかしい言葉を使うのは今回が最初で最後にしたい)
そういえば、ルミネの有名な広告コピー「試着室で思い出したら本気の恋だと思う」はまさにそういうことで、一人でいる時に相手のことを思っているシーンがうまく描かれている。このコピーは多くの共感を得て、ルミネの広告コピーを集めた書籍も発売された。
一緒にいる時よりも、
一人でいる時の方が、
その人を想っている。
帰り道で友人の優しさに気づいたり、別れてから恋人の大切さに気づいたり、実家を離れてから親のありがたみに気づいたり。あとじわは人生を学ばせてくれる。灯台下暗し。大きすぎる愛は近くでは見えづらい。
とにもかくにも、私たち人間は、一人でいる時ほど、誰かのことを真剣に考えてしまう生き物なのである。それはつまり、人と人の関係って一緒にいない時間にこそ育まれるってことなのかもしれない。
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