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読書と戯言「齋藤茂吉ノート ノート八」:白秋はゴーギャンたり得るか?

 返却期限が来てしまった。貸出延長したのだが、読み終わりそうになかった。そのため、取り急ぎ目当てのノート八のみ読んだ。これは今月上旬のことである。本がいっぱいあるとうれしいので、いつもつい余分に借りてきてしまう。

齋藤茂吉ノート概要

 齋藤茂吉ノートは中野重治が書いた齋藤茂吉評である。基本的には齋藤茂吉の作風、世間からの評価に対しての中野の考察が書かれている。


白秋とゴーギャン

 白秋が小笠原での経験を得たのちの作品を がゴーギャンと重ねられていることには驚いた。これは他者からの視点であり、言葉遊び感覚もあったかもしれない。

 言われてみれば小笠原の夏にはどことなくゴーギャンの雰囲気があるように見える。

海の色の麗らかさ、それは何とも云へぬ澄み亘った瑠璃色だ。濃厚で豊麗で光輝に満ちてゐる。裸の子供どもが二三人泳いでゐたが、その肉体が鮮やかな紅色になって見える。こんなに美しい人間の肉体を見た事は無い。

小笠原の夏 北原白秋 1918

 しかし、あえて言い方を借りるなら、その本質はモネと感じる。

 光のやわらかさ、境界の曖昧さ、神経質なほど絶妙な彼の色彩感覚には、印象派のイメージを持っている。


白秋作品の光と香り

 先ほど白秋はモネであると書いたが、モネには白秋ほどのくどさはない。

 白秋の生み出す文章は、よくいえば匂い立つような文章。悪くいえば香水臭い文章。長所と短所はいつも表裏一体である。

 全集で手元にあるのが残念乍水墨集のみなので、再びこちらを参考にさせていただく。

 水墨集は後期の作品集である。この時期の作品からは、たしかに光を強く感じる。

 例えるなら山頂から望む淡く眩しい御来光。ただ、その強すぎる光は、結果的に影を薄くしている。影を色濃く鮮やかに描くゴーギャンとは対照的だ。

 このころの短歌には李白の影響が強く窺われる。実際、序文「藝術の円光」の最後には李白の名も挙げられていた。

 初期には薔薇の香気を纏っていた彼の作品は、晩年蓮の香気を纏った。耽美は幽玄になり、幽玄はやがて幽寂になった。夏の青々とした陽射しにはなり得なかった。

 この点において白秋の作品は、初期から晩年に至るまで一貫していると思う。


悲しき魔羅

 白秋が小笠原時代に作った歌にこんな作品がある。

海にきてわれがこの世のうつそみの
愛惜しき魔羅悲しみにけり

 これには笑ってしまった。これを笑うのは白秋の顰蹙を買ってしまうだろうか。しかし、笑わずにいられなかった。

 彼が小笠原に行ったのは、姦通罪で逮捕されたことが要因のひとつである。よくもあんなことがあった後に「魔羅悲しみにけり」と詠えるものだ。

 とはいえ「愛おしい」と「いと惜しい」を分かりやすくかけているので、後悔の念は伺える。どのような経験も作品の糧にして昇華する。これは白秋の強さだと思う。

 調べたのだが、「〜にけり」は、すでに完了している物事に関して、新たに気付いた気持ちを表す助動詞らしい。「魔羅悲しみにけり」は、それ自体が悲しんでいるのではなく、それが悲しくなってしまっているのを彼が気づいたといった様子に取れる。どうにも他人行儀な印象がある。


近代的か、ハイカラか

 中野は作中でこう表現した。

 白秋はハイカラではあるが、近代的でない。

 白秋が描いたのは男性にかしづく女性像。あるいは保護と慈愛を向ける母親的女性像、であったように思う。

 文学界にても女性が躍進している大正から昭和初期にかけて、白秋の描く女性は近代的ではなかった。女性が目指し、憧れる女性ではなく、男性が憧れ、欲する女性だった。

 以前、白秋はエディプスコンプレックスなのではないか、との記述を目にしたことを思い出した。

 エディプスコンプレックスとは、異性の親への性愛と同性の親への敵対心を生ずる無意識的な葛藤を指す。

 確かに邪宗門の序曲やわが生ひたちには、その傾向が窺える。白秋の描く女性たちが近代的でないのは、この精神的葛藤に起因するのではないだろうか。とはいえ誰でもママみのある女性(男性もまた然り)は、好きであろうと思う。


盃の話

 これにだけは大いに同意しかねる。薄い口の盃で飲む酒と一升瓶直飲みの酒は同じではない。これでは日本酒とストロングゼロとの間には何の差もない、と言っているようなものだ。彼はあまり酒を飲まない性分なのだろうか。まあ、当時はストロングゼロなどというものはなかったのだけれど。


実体の無さについて

 中野の書いた通り白秋の作品に物質的な実感はないと思う。あるとするなら憧憬である。

 存在しないユートピアへの憧れ。故郷への郷愁。盲目的ファンの視点から言えば、過剰に装飾された空虚さにもまた趣があるとは思っている。

 ではなぜここに実体がないか。

 例の魔羅の歌にもその傾向は垣間見えている。詩も短歌も小説も白秋作品の視点はどこか鳥瞰的なのだ。

 だからこそ、自分のこと、あるいは自分の身近な誰か(もしくは何か)のことと想像できて、人々の心に届いたのかもしれない。


あとがき

 前評判ではかなりこき下ろしていると耳にしていたが、概ね的を得ているように思った。

 初期の作品には棕櫚の花粉のような手触りがあった、とある通り、中野は初期の白秋作品に関しては評価していたと読み取れる。

 これをもって、後期の作品群をよくよく見てみると、とても悪い言い方なのだが、懐古主義を年相応に重ね、熟練した技巧ばかりが目につくようにも思える。あとは好みの問題である。それでも多分、白秋という作家と、彼が生み出した作品たちを嫌いにはなれないだろうと思った。

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