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#4 言葉の余白の旅に出る

これは1年3ヶ月前(2023.2.6)に書いたらしい。

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エモいと地獄とジャンクフード

好きな広告がある。

2021年度朝日広告賞の広辞苑の広告。
「エモい」と「ヤバい」のやつである。


広辞苑を起点として語彙が集約していくに連れ、字体が崩れていくところも秀逸だ。

これに似た現象が起こっていると思っているのが「地獄」という言葉について。

これは耐え難い苦痛を受けた時やその状況下にある時に使われる。

また、アニメや漫画、その他諸々の物語などの登場人物(あるいは感情移入した読者)にとって、救いようのない展開になった時にも使われる言葉だ。

宝石の国という漫画がある。これはその救いようのない(これは読者にとって)展開に度々地獄と評されている。

地獄と持て囃されることに鬱屈とした感情を抱えていたのだが、本当にモチーフが地獄であったので、その鬱屈も燃えきれず消しきれず、不完全燃焼になってしまって困った。

これが意図されていたとしたら、市川春子は天才で秀才で鬼才である。我々は手のひらの上で踊り、のたうち回るしかない。

地獄、というのは何種類もあるらしい。

どの地獄に振り分けられるか、という審判はトータルで13回ほどあるらしい。これが俗にいう法要という儀式のようだ。四十九日や〇〇回忌。僧侶を筆頭として親近者たちが故人が極楽浄土に迎えられるようその審判の折に祈りを捧げる。さながら弁護団のようだと思った。

「エモい」や「地獄」は、あまりに意味が手軽に、包括的になり過ぎて、ジャンクフードのようだ。

言葉は指す意味が同じでも、表記によって意味が変わることがある。

例えば「思い」と「想い」。

「思い」は思考全般を指し、「想い」はより情緒的な意味を持つという。

確かに、想い出、と書く方が叙情的でノスタルジックな感じがする。

大学の講義では、ゲイジュツの「芸」と「藝」は、本来まったく反対の意味と聞いた。

前者は草を刈り取る、後者は植える・育てるという意味がある。

「芸」と「藝」は、こちらのコラムが分かりやすい。


目という字も、「目」と「眼」と「瞳」だと何だか少し印象も違ってくる気がする。

感情、感覚、思考をなるべく細かく咀嚼し、消化し、昇華したいと想い、願っている。

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ジュンク堂は品揃えにニッチさを感じて好きなのだが、通っていた所が悉く閉じてしまった。

この間久しぶりに開いているジュンク堂に通りがかって、永遠に無くなりませんように、とやや重めの祈願をしながら買ったのが「片山廣子随筆集 ともしい日の記念」である。

本を選ぶ時は大抵、ざっと捲ってみて文体だけ確認して相性が良さそうなら購入する。

まだすべて読み終わってはいないのだが、「新年」の中にこんな記述がある。

 新年なる現象は私のちひさい時分には一月いつぱい続いたと思ふけれど、だんだん短くなつて、今では元旦一日にちぢまつたやうだ。
 これは今になくなつてしまふかもしれない。
 なぜかと云へば、ほかが凡て充満してゐる場合には、そしてその充満の圧力がなほ増してくる場合にはーー物でも人間でもがーー自分の居場所を探しはじめる。そしてブランクの場所はどんどんふさがつて行く。郊外が発展したのも、ビルヂングが建つたのも、そして「新年」が短くなつたのも、みんな同じ理屈だ。

片山廣子随筆集 ともしい日の記念 p.16-17

そういえば、宝石の国1巻にもダイヤが「この気持ちに名前をつけて」とフォスへ頼むシーンがある。

名前が付いて分類されると人間は安心する。

そこで一旦「不明で未知なもの」の正体に決着がつくからだ。

「不明で未知なもの」は、古来から自分に害を為すかもしれない存在であり、恐怖の対象であり、それは現在まで続いている。

今も昔も未知を消していく作業というのは、変わらず充足に必然的に繋がっている。

曖昧で包括的でキャッチーな言葉は便利でおもしろく、刺激的ではあるが、名前をつけた時点で思考は停止する。

だからと言って、思考にはある程度ブレーキを掛けておかないと、宇宙の果てから戻って来れなくなってしまう。端的に言えば、病む。

よく独自の造語や隠喩を生産することがあるのは、このブレーキのためだ。と書くと聞こえが良すぎるが、遠からずである。

そして大抵後からひどいセルフ解釈違いを起こしてセルフ癇癪を起こし、ちゃぶ台を派手にひっくり返している。そしてまた旅に出る。

とはいえ、何もかも詳細に分類するのは不可能である。

例えば1〜100までの数があったとして、その数を構成しているのは整数だけではない。
その中には無限大数の小数点以下が内包されている。

白は200色ある、とどなたか仰ったが、本当はきっと200色以上ある。

黒も同じだ。
灰色はきっともっとたくさんある。

時に、絵の何も描かれない空間は「余白」と呼ばれる。

余白は名前のない空間だ。

観る人によって山の峰になったり、水辺になったり、草原や雨、雪や霧の中になることもあるだろう。

あるいは、それらが複合的に絡み合った言葉にできない鑑賞者独自の風景になる。

すべての事柄に名前をつけてしまう必要はない。

自分のなかにある余白として静かに残しておいてもいいんじゃないか、と、そう思う。

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