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助産師の助言とエマニュエル・レヴィナス

助産師さんと生まれたばかりの娘のことを話していた時のこと、レヴィナスの『実存から実存者へ』を想起させるやりとりがあり、ちょっと感動したのでその話を。曰く、「赤ちゃんは自分の手を自分の手として認識していないんですよね。お母さんのおっぱいを『いゃー』という感じで跳ねのけることもあると思うんですけど、それは手が勝手に動いているだけで、意識はないんです。自分と自分の外の世界の境界もはっきりしていないので、こうやって全身を触ってあげて、ここがあなたの手だよ、ここがあなたの足の先だよ、とわからせてあげるといいですよ。」アイデンティティが未成熟の状態、自分と世界がまだ渾然一体としている状態、それはレヴィナスが、完全な暗闇の中で自分の手を見つめるとき、もはや自分という存在の境界が曖昧になると言った、まさにそのあり様ではないのだろうか。たとえば私が、あるいはこの文章を読んでいるあなたが、いま目の前にあるこの指先の皮膚の先端までが私という存在の境界であると考えているとする。果たしてそれはアプリオリに当然のこととしてしまって良いことなのだろうか。あるいはラカン。娘が自分の姿を鏡で見て泣き出した、と妻が言っていたが、いよいよこの子も鏡像段階に入ろうとしているのだろうか。つまり、生まれたばかりの頃は自分と世界の境界線がわからなかった赤ん坊が、鏡に映る自分の姿を見て、自分の動作とシンクロする自身の鏡像を認識して、初めて自分という存在と世界の境目を知るということ。それはひょっとしたら、世界から切り離された私という存在の孤独を初めて認識する瞬間なのかもしれない。

ということで、毎日沐浴をさせ、毎日オムツを変え続ける怒涛の日々。そんななかで劉慈欣のSF小説『三体』がいよいよ面白くなってきた。ネットフリックスの『三体』は、原作をかなり改変しているということも判明。どちらも面白いので、両方に触れて比べてみてもいいかもしれない。

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