見出し画像

エマニュエル・トッド『西洋の敗北』覚書き part 3

エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』を読み終える。なかなかに骨が折れる本だった。

最初は気合を入れて読んでいたが、途中から力尽きてきた。ヨーロッパの近現代史に関する素養の欠如もあり、流れを追うのが難しい部分もあった。現代社会を宗教的な規範が崩壊した「プロテスタンティズム・ゼロ」の状態と位置付け、そこに漂うニヒリズムが現在の国際政治を動かしている、という論考には納得する部分もあり、同時にいかにもヨーロッパの大陸的な議論の展開の仕方、と思うところもあった。

大学院生時代にパリに留学していた時にも感じたこと。特にエビデンスがあるわけではないが、ヨーロッパ、少なくともフランスは、なんだかんだで宗教的な規範に価値を見出している。だからこそ、その崩壊に対してセンシティブになる。パリ大学の映画の授業で、68年の五月革命の時代を学生として生きた教授が、日本映画における容赦のないモラルの欠如、およびそれに伴う性的な表現の奔放さについて言及していた。たしかそれは大島渚について語っている時だったような気もするのだが、日本人からすれば美的な演出がかかった露骨な現実の描写として感じられるものが、フランス人からすると社会の規範を揺るがす大きな衝撃として捉えられる。ロジックでガシガシと議論を推し進めるフランスと、節操なくその場の空気に従って身をねじっていく日本の対称性。どちらが良いというわけでもない。ただ、宗教的な規範が背骨となり立ち続けてきた西洋社会において、背骨の溶解を例えばニヒリズムと呼ぶのであれば、そもそも日本には背骨があったのか。日本は常に軟体動物として、その姿をウネウネと変えながら生き延びてきたのではないか、という印象も受けるのだ。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集