サルトルとエマニュエル・トッドと大江健三郎
サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。人間はペーパーナイフではない。ペーパーナイフならば、紙を切るという本質があり、その本質に基づいて実存、つまり存在が生みだされる。しかし人間には、かくあるべしという本質がない。いかなるコンセプトもないままに、いきなりこの世に生み落とされる。かつては宗教が人間の本質を担保していたのかもしれない。しかし、神なき世界に生きる私たちは、自らその本質を見出さなければならない。サルトルの場合、だからこそその本質を革命に求めよう、となるのだが、少なくとも私は、その「だからこそ」に共感を抱くことはできない。
まったく読み進められていない『西洋の敗北』だが、この本のなかでエマニュエル・トッドが展開しているニヒリズムも、おそらくこの辺りの議論と絡んでくるのだろう。個人が依拠すべき大きな物語がなくなった時、そこにはもはやニヒリズムしか残らない。自分という存在の価値を裏付けてくれる規範や、その外堀を固めてくれる規矩が失われた時、人間は果たして人間として生き続けていけるのだろうか。
自分の存在の根拠を自分の欲望だけにおく人間は崩れやすい、ということはよく言われる。自分があきらめてしまえさえすれば、全てが崩壊してもなんの痛痒もないのだから。自分が崩れたら誰かも、あるいは大切な何かも崩れる、というシチュエーションに追い込まれるからこそ、最後の踏ん張りが効く、というのもまた事実だろう。それは自分の子供かもしれないし、なんらかの大義かもしれない。ただ、この最後の踏ん張りというものはとにかく疲れる。悲しくなるほどにじっとりと疲れる。
自分の人生に最も大きな影響を与えた作家を一人あげよ、と言われたら、確実に大江健三郎になる。彼の『新しい文学のために』という作品に出会い、私はそれまで通っていた理工系の大学を辞め、本格的に文学に打ち込むようになった。大江健三郎の小説は、ダンテやイエーツなど、彼が影響を受けた多くの作家たちの引用に彩られている。その中のひとつ。『新しい人よ眼ざめよ』という小説の中で紹介されている、ウィリアム・ブレイクの詩から。
シーシュポスの神話を思い起こさせるこの一説に、個人的にはなぜだか励まされる。個人の欲望や快楽とは別のところにある、人間のやるせなさと疲弊と哀愁と、そして尊厳をここに感じる。人間が現実の中で生活するというのは、結局こういうことなのではないだろうか。