三体人と自己の消滅、あるいは誕生
オフの日は朝からジムで筋トレ。世界的にヒットしたSF小説、劉慈欣の『三体』の第二部を読み進めているのだが、これがますます面白くなってきた。端的に言うと宇宙人と人類との戦いの物語なのだが、人類の最大の強みが謀略と策略、嘘をつける能力というあたりが何ともいい感じ。たぶんこのまま、第三部まで一気に読み進めていくと思う。
社会人になってから、小説を読む機会というのがめっきり減った。会社に入って十年くらいは、ビジネス書を徹底的に読んでいた。最近は哲学書や思想書が多い。そんななかで、とくにエンタテイメント性の高い小説を読むというのは、やはり大変に面白い。物語に没入する時、自分が消えるから。
つまらない時間を過ごしている時というのは、大抵が自分に拘泥している時。充実した時間を過ごしている時というのは、大体が自分という存在を忘れている時。良質のエンタテイメントというものは、徹底的に自分を忘れさせてくれるから良い。そこに物語があり、人物が動いてくれているとなお良い。
ポイントは自己の消失にある。やりたくない仕事をしている時というのは、「めんどくせぇ」「くだらねぇ」「ふざけんな」「バカじゃねぇの」「もう人生あきらめた」「あのときの選択が違っていたら」「つぶしてやる」などなど、焦点が自分の方に徹底的に向いている。
一方で、成果を残すときというのはある種のフローの状態、具体的にはそこにあるエネルギーを一つの作品として結晶化させることに完全に集中している。それは、形を持った成果物として具現化する場合もあるし、あるいは数字の達成に向けたプロセスマネジメントとその実行として現出する場合もある。いずれにしても、そこでフォーカスが当たるのは対象であり、主体としての私は対象の下部に潜伏している層にすぎない。
この辺りを突き詰めていくと、カントや現象学、あるいは唯識における自己にまでたどり着くのだろうが、それはまた別の話。そしてこれもまた別件なのだが、成長しつつある新生児の娘の視線を追っているとき、対象、あるいは世界という現象を認識する集約点としての自己の誕生の現場を見ているような気になる。つまり、最初から自己があるわけではない。まず存在するのは世界であり、世界からの多様な刺激が、あたかも太陽の光が虫眼鏡を通して一点に集約されるように、ひとつの点に集約される、最初はぼんやりとした光のかたまり、それが徐々にひとつの点としてクリアになっていき、黒い紙を燃やすまでの熱量を持っていく、白く細い煙があがり、やがて小さな火がつく、火がついた瞬間こそが自己が誕生したときなのではないか、そんな気さえしてくる。
ということで、この文章を書いたり、あるいはこの文章を読んだりしている「私」という存在は、ともするとむかしから当然のごとく存在し続けてきたように思われるかもしれないけれど、決してそんなことはないんだよ、ということ。10歳の頃、5歳の頃、あるいはそれ以前の自分が感じていた自分という存在に対する認識の手触りは、私だかあなただかは知らないが、いまのそれとは大きく異なる。逆に言うと、いま自分が感じている自分という存在、あるいは自分と社会との関係に対するこの違和感だったり若干の不安だったり、同時にある種の信頼だったりは、それもまたかなり相対的なものにすぎず、すぐに消えてなくなり、新しいものに置きかわっていく。
ということで、三体人が地球に到着するまであと二世紀。果たしてネットフリックスはこのすべてを映像化するつもりなのだろうか?なんとも言えない閉塞感が疲弊した身体にしみる小説。繰り返す日常に疲れた人におすすめの小説です。