只見線のあるまちにて2025/01/24ふらっと閉館のお知らせ
はい、今日の天気予報はどうだったでしょうか?
こちら会津では雪がひと段落ついたところなのですが、尾瀬のある桧枝岐村で地震が多発していて心配な状態なのです。
昨日も朝方2:49に震度5弱という、岩盤の強い奥会津では珍しいくらいの揺れを観測したのです。
朝になって桧枝岐村の隣町に住んでいる父のもとへ電話をすると大したことない様子だったのですが。
それよりも激震が走っているのは自分たち障がい者のほうで、なんと16年間続いていた余暇活動支援センターふらっとが閉館するというのです。
平成21年6月、日本初の余暇活動支援センターと言う触れ込みで始まった当事業ですが、自分は初日こそ逃したとはいえ最初からいたのです。
途中、病状の悪化で利用を中止していたのですが、平成29年から再度利用することになったのです。
今でも再度利用を始めた時のことを覚えているのですが、平成22年に自分が撮ったラ・フェスタ・ミッレミリアの写真が飾られていたのです。
新しくなった職員さんに聞いてみると、しまってあったんだけど素敵な写真だなと思って飾ったんですとのこと。
まさか、現役カメラマンの奥さんだなんて知らずに、物好きな人もいるものだと思っていたのです。
結局、その写真は会津若松市まちなかアートプロジェクト「わたしの好きな会津365」で優秀賞をいただいたのです。
いやぁ、見る人が見ると違いがわかるんですね。
って、今はそんなことの余韻に浸ってる場合ではないのです。
この職員さんとの出会いが自分をさらなる写真の世界へ連れて行ったのは確かなのです。
令和元年には福島県障がい者芸術作品展「きになる⇆ひょうげん2019」で「きになる⇆ひょうげん賞」をいただいたのです。
今でも覚えていますよ、表彰式に朝一の電車でいわきに向かったところ、職員さんからメールが入ったのを。
(職員さん)電車大丈夫?今どこ?(自分)磐越西線が遅れたんですけど磐越東線が待っていてくれました、磐越東線の中です。(職員さん)気をつけて行ってきてね、みたいなやり取りがあったのを覚えています。
令和4年には第5回 日本財団 DIVERSITY IN THE ARTS公募展で佳作をとったのです。
この時も職員さんご本人が受賞したかのように喜んでくれたのを覚えています。
そして令和5、6年には第一回、第二回只見線フォトコンテストの受賞があったのです。
この風っこは、ちょうどふらっとの行事で喜多方レトロ横丁に行くときに出くわして撮ったものなんです。
そして同じく令和6年には目標の一つにしていたPENTAXのサイトの「とっておきPhoto+」に選ばれたのです。
これも同じく喜多方レトロ横丁に行ったときに撮ったものというのが今となっては懐かしい思い出です。
思い出と言えばふらっと館内で開催していた(今もやっています、3月中旬までやります)写真展の存在があります。
はじまりの美術館さんに聞いて始めたのですが、新聞社に取材を依頼するなどと言う大それたこともやってのけたのです。
そして、なんと2年目にはあの読売新聞さんがnoteの話を聞きつけて、直々に取材にいらっしゃってくださったのです。
この時お世話になった記者さん、勝手にFacebook友達申請してしまってすみませんでした、そして友達許可ありがとうございます。
また、いつか機会がありましたら、ぜひお話させてくださいませ。
そして大事なことを忘れていたのです。
写真展に足を運んでいただいたnoterさんの存在です。
今回、閉館の作業真っ最中で、いらないものなどを処分していたのですが、そう言えば写真展の御芳名帳ありましたよねということになったのです。
当時はこっぱずかしくて見ることすらしなくて、職員さんからnoterさん来ていたよと話を聞いていたぐらいだったのです。
来館いただいたnoterさんは二人いて、一人の方は柏市の男性の方なのですが、来訪記を記事にまでしていただいてしまって恐縮です。
もう一人は須賀川市の女性の方、大変すみませんでした、女性と聞いて変な噂が立っては大変だと思って住所どころか名前すら見ないでいたのです。
また、機会があったら立ち寄りたいとのことでしたが、その機会は永遠にやってこないようです。
ただ、御芳名帳に住所が詳細に書かれていたので(ついでに猫の絵も)、お礼のはがきを出そうかと思っています。
写真展に来られたのも何かの縁だと思って、今後もご縁があることを期待しています。
もうダメ泣きそう、頭の中で森山良子の「今日の日はさようなら」が永遠とかかっています。
正直、閉館の話を聞いた17日から、ずっと頭の中は「今日の日はさようなら」なんです。
はっきり言って自分の次の行き先は決まっていません。
余暇活動支援センターという名前からもわかるように、普通の障がい者事業所さんと違って土日も開所しています。
市役所が言うように本当にその役割はすでに終えているのでしょうか?
実際問題、ここに次の行き先で悩んでいる人がいても平気なのでしょうか?
切られるときは弱い立場の者から先に切られるということを再認識しただけのような気がします。
ここに日本の縮図があると言っても過言ではないのかもしれません。
ただ、皮肉なことに余暇活動支援センターふらっとを作ったのって、自民党の某裏金議員(前議員か)が市長さんだったときなんですよね。
昨年の衆議院議員選挙に出馬して当選してたら、閉館がなかったとしたらば自分ら障がい者にとっては喜ばしいことだったんですけどね。
いや、罰は罰としてしっかり受けてほしいものですが。
今年の十日市はSPなしで奥様(たぶん)と一緒に歩いていられるのを、チラッと拝見しましたけどね。
去年の十日市には堂々とカメラに写ってくれているのがnoteにも載せてあります。
堂々と言えば堂々と歌ってくださった空野大さんのミニライブもありましたね。
もう、1年も前のことだと思うと早いですよね時が経つのは。
空野大さんにはみんなの寄せ書き入りのフォトブックを贈ったのですが、自分の趣味で英語と中国語に翻訳したのを載せたのです。
そして、将来世界にはばたいたとき、自分にはこんなときあったけなぁってシャンパンでも飲みながら見てくださいって書いて渡したのです。
結果、その将来は予想よりも早くやってきそうで、空野大さんは世界進出を目指して活動しているとかなんだとか。
それに比べると自分はダメですね、ふらっとが閉館するというだけであたふたしてしまって。
自分も3月には51歳になります。
只見線を撮り始めたのが33歳の時、まだ短パンが似合う学生気分だったと思います。
それから約20年、ひげやもみあげに白いものが混じるようになってきたのも最近ではないような気がします。
ここらで一区切りつけても良いような気もします。
とか言って次の日には只見線撮りに行くなんてことは、もうないような気がします。
これはあれですね、どさくさに紛れて、ふらっと終わるから自分も終わる宣言ですね。
でも、70歳でも旅行記書く人いるからなぁ、って自転車で30キロも走るなんてことはしないと思うのですが。
ただ単に面倒くさくなってきたのか、体が追い付かなくなってきているのかわかりません。
たぶん、後者だと思います、自分は運動苦手なので。
33歳の頃、相談支援員さんに「10年後、後悔しないように」と言われたのが今になってやけに頭に響きます。
50歳になって、ようやくそういうことだったんだなと気づかされたのです。
さて、今日はそろそろ終わることにします。
それではまた。