【考察】ライブの後に僕が歩く理由
みなさんはアイドル現場に足を運び、お目当てのライブを観終わって特典会に参加した後は何をしていますか?
真っ直ぐ帰路につきますか?もしくは仲の良いヲタ仲間たちとご飯を食べに行ったりお酒を飲みにいったりでしょうか?
僕はその日のライブが良かった時ほど”歩き”ます。
一口に”歩く”といっても、ライブ会場から自宅までをただひたすらに黙々と”歩く”のです。都内様々なライブハウスがありますが、歩く時間を平均するとだいたい3時間前後といったところでしょうか。そしてそれは決まってライブの帰りに限定されます。ライブ会場に向かうときにこんなことはしません。
最近、現場で仲良くさせてもらっている人たちに、このライブ後に家まで”歩く”ことについて話す機会が度々あって、その都度なんとなくの説明をするんですが理解してもらえる部分ともらえない部分があって、それが実に面白いのです。
なにが面白いのかって、僕にとっては至って日常のルーティーンをこなしているに過ぎないのに、ほかの人にはそれが時として奇異な行動として映っているということです。
そんな折、あらためてどうしてこんなこと(ライブ後に徒歩で家まで帰る)をしているのかというのと、いつも歩きながら何をしているのかを一度客観的に明らかにしてみようというのが本記事の目的です。
今夜も渋谷から3時間以上かけて徒歩で帰る道すがらこの事を書こうと決め、帰宅してデスクに一目散に座り半ば勢いそのままにキーボードを叩いています。
そして導き出された”歩くこと”の理由は大きく2つでした(細分化するともっと沢山ありそう)。1つずつ説明させていただきます。
1.ライブの余韻を楽しみたい
さっき見たばかりのライブの内容を思い出しながら、印象的だったシーンや曲の感想をスマホのメモに書き留めるのもこの歩いている時間に行っています。
誰でも一度は思い当たるフシがあると思いますが、特典会で話したかったことを忘れたり、言いたかったことが言えなかったなーって思い出して悔しい思いをするのもこの時間帯だと思う。
ライブの後に闇に紛れながら夜道を一人で黙々と歩く時間というのは、そういうのもひっくるめてライブの余韻を存分に楽しむ時間になるからです。
ちなみにライブレポをnote記事に書くのもこの”余韻を楽しむ”ということに含まれています。
昔書いた記事でその辺はハッキリと言及していて、
ライブレポを書くことが余韻を楽しみ尽くすことのデセールだとすると”歩く”は食前酒~オードヴルの様な位置づけな気がします。
そしてそのなかでもよくやっているのが、”推しとの追想”と”ライブの振り返り”です。
推しとの追想
特典会で好きな子と話した後は誰とも話さず誰とも目を合わさずにすぐに会場を後にするのがベスト。
そうするとまだ特典会で会話をした余韻の世界が僕の身体を纏ったまま、二人だけの世界に没入することができる。
そう、特典会が終わった後も僕は歩きながら延々と好きなあの子と脳内で会話をし続けている。
この会話の余韻を長く抱いていたいのなら電車に乗って帰るなんてのは、一番やっちゃいけない。
駅へ向かう雑踏を素通りして独り夜道を黙々と歩きながら記憶のマーキングみたいな行為を繰り返しながら家に帰るので、チェキ帳を開いて歴代のチェキを見るとその時に話した内容をかなりの精度で思い出すことができる。
僕が基本的にダラダラと特典会に居座らなでサッと会場を後にするのもこれがやりたいからというのもあるのかもしれない(単に人が密集している場所が苦手で息が詰まるというのが一番大きいのだけれど)。
そうやって僕は食前酒の様な甘美な酔いを全身に巡らせる。
さっき会ったばかりなのにもう「早く会いたい!」。
歩きながらさっきの会話や声や顔を何度も思い出す。
「もう会いたい!」
振り返り
薄暗い夜道を歩きながら今日のライブを振り返ることにもかなりの時間を割いているとおもう。
あの曲のあのパートの時可愛かったなーとか、フロアの盛り上がり具合や、MCで話していたことだったり、後々ライブレポに書きそうな場面を振り返っておさらいするのも”歩く”ときの大事なルーティーンの1つ。
セットリストとMCの内容はライブ中にメモを取っているので、それを見ながら歩いていて思い出した事とかを更に感想として携帯のメモに肉付けしていく。
そうしているうちに声が聴きたいなっていう気持ちがむくむくと立ち昇ってくるので、イヤホンで音源を聴きながら歩いています。
人気のない夜道で音源を聴いているとついつい振りコピをしてしまうのってあるあるですよね?
◇
ここまでは電車で帰ったとしても出来るっちゃできることだとおもいます(人が多くて気が散りますけどねー)。けど、次の理由は歩かなければダメなんです。歩くことに意味があります。
2.幸せの帳尻合わせ
ライブ会場から自宅まで”歩く”行為のこの”幸せの帳尻を合わせる”という理由・理屈がやはり誰にも理解されないので少し入念に掘り下げてみようと思います。
感覚的には、ライブで得られた幸せの総量が多すぎるから今日はちょっと自分自身に労苦を与えてそれとなくHappy(幸せ)とUnhappy(不幸)の天秤を釣り合わせておくか。といった、験担ぎのようなニュアンスでなんとなく繰り返しているに過ぎないんです。
つまりHappy側に天秤が傾きすぎると近いうちに大きなUnhappyの揺り戻しが起こるのでは?という恐怖感や畏れみたいなものがそこにはあって、言い換えれば「いま幸せ過ぎて怖い」なのだ。
ライブと特典会で大好きな推しから溢れんばかりの元気と幸せを貰いすぎて、このまま日常生活に戻るのが怖いから。
冒頭でも触れたとおり、《僕はその日のライブが良かった時ほど”歩き”ます。》というのは、そういった理由があるからです。
要は先々日常生活において予期せぬ揺り戻しがあるなら、先回りして自ら天秤のバランスを取ってしまおうということ。
これを僕は”幸せの帳尻合わせ”と呼んでいるんだけれど、別にそんなに特殊な観念ではないと思っていて、宝くじやギャンブルで高額当選した際や、何か予期せぬ吉報や良いことが起きたときに、
「明日事故るんじゃないだろうか」
とか、
「車に轢かれないように気をつけよう」
みたいなセリフって常套句のように使いますよね。自分で使わないとしても周りで使っている人は見かけますよね。それと考え方は一緒だし逆もしかりで、
「最近嫌なことばかり続くからそろそろ何か良いことが起きるんじゃないかな」
とか、そういった何か日本人の宗教観に根ざした”お天道様”的思考が働いているような気がしてならない。
”悪いことの後には良いことが起こる”
”良いことの後には悪いことが起こる”
僕の場合、良いこと(ライブが楽しかった)の後に能動的に悪いこと(苦行)を行う事によって次の良いこと(ライブが楽しい)を引き込む、といった循環を無意識的におこなっているのかなあ。これが”幸せの帳尻合わせ”の正体なのかなというのが今ぼんやりと見えている結論です。
ここで”歩く”行為を”苦行”と言い換えてしまっているけれど、決して辛いことばかりではないのは、理由の1を読んでいただけていれば明らかでしょう。
締め
いま思いついたまま要点を分類していったらたまたま2つになっただけで、もしかしたらもう少し理由はあるのかもしれませんし、ただ単に人酔いしたから独りになりたいというのも理由の1つに入れて良いのかもしれません。
少し雑多な文章になってしまった感は否めないのですが、いま思ったままを書けたかなと一息つけました。
特に僕からこの"幸せの帳尻合わせ"の話を直接聞かされたことの無い人からすると、あまりピンとこない内容だったかもしれませんが、最後までお読みいただきありがとうございました。
もしこの話をもっと聞きたいという殊勝なヲタクがいたら、ライブの後に飲みにでも誘っていただけたら喜んでいくらでもお話しします。推しの惚気もセットになりますけど。
あと、上の方でも引用しましたが、
少し長い文章にはなりますが文章を書くことについて結構赤裸々に書いている記事ですのでお暇でしたら是非!
あとがき
歩くこと、生身の身体ひとつでA地点からB地点へ移動するという行為が好きです。
点Aと点Bが確実に地続きであるということ、それが実存であることを体感するためにそれを求めて僕は歩きます。
点Aと点Bが陸地で道で繋がっているということは知識として(Google Mapなど)では理解出来ているけれども、実際にその道を自分の脚で辿ってみたい。という欲求。
自転車に乗ってあてもなく何時間も走り続けるのが好きなのもこの欲求が根本に根ざしているからだとおもう。
それはつまり換言すると、世界中の空が青いということを知る為に世界中を旅して周るという行為と理屈は一緒だ。
知識として世界中の空は等しく青いということは心得ている。けれども実際にこの目で見て納得したいのと一緒。
地球上には酸素が張り巡らされているということを知るために世界中の空気を吸いに行くと言い換えてもいいだろう。
もう少し身近な日常に落とし込むと、自宅から仕事場までは毎日電車という乗り物がレールの上を走って連れて行ってくれたり、自動車という乗り物があるけれど、本当に自宅と仕事場は陸続きになっているのだろうか?
自宅から最寄り駅までの間や仕事場には人がたくさん居て、商店や住宅があり人の営みがそこには確実にある。けれど自宅と仕事場の間にも同様にそこには人の営みが確実に存在しているのだろうか?と僕は疑ってしまう。
少し深掘りすると、電車だとほんの数十分で何10kmも移動出来てしまう間にその移動した空間のなかに何十万何百万という人間の営みが詰っているということが信じられないし、もっと言うと恐ろしさすら感じる。
もっと言うとあの11両編成の山手線の車内に1千人以上の人たちが同時に同居していて、その一人ひとりに等しく人生の営みが連綿と続いているという事実に恐ろしさを感じてしまう。
子供の頃ほど頻繁じゃなくなったけれど、夕暮れ時に目の前を通り過ぎる電車の車窓から見える大勢の人たちや、遠くの街並みなんかが全て張りぼてなんじゃないかって思う時が今だにある。
先程も書いたとおり、それは知識として当たり前に識っていて張りぼてなんかじゃないんだけれど、実感が抜け落ちている怖さがやはりそこにはある。
◇
少し内容が込み入ってきたので点Aと点Bが本当に陸続きになっているのかをこの目とこの脚で確かめたいという話に戻します。
今の時代、Google Mapだけで世界じゅうの観光地や史跡を見ること識ることが可能だ。
けれども多くの人が実際に現地に足を運び、僕/私のこの眼で実物を見て肌でその場の空気感を感じたい、その土地で暮らす人々も含めてその土地の雰囲気を体験したいと渇望するのと大本の思想は同じだと思う。
これらの話もいつかみっちり書いてみたい話題なんだけれども、本稿の内容からは少々外れてしまうのでこの話題はこの辺にしておこうとおもいます。
真夜中の与太話に付き合っていただいてありがとうございました。