野球半生
息子の野球のことばかり書いて来ましたが、「#想像していなかった未来」という企画に便乗して、たまには自分の野球人生を振り返ってみたいと思います。多少長文になりますので、ご了承ください。
小年時代
自分には、3つ上の兄貴がいた。
少年野球をやっていた兄貴は4番ファーストでキャプテンも務めていた。親に連れられて試合を見に行くたびにヒットやホームランをかっ飛ばす兄貴が格好良過ぎて、自分はとてもあんな風になれないと思い、兄貴よりも小さくて身体も細い自分は、始めてもいないのに自分に野球は無理だと諦めていた。
中学生時代
そのまま何も習い事もせずに遊び呆けて小学校を卒業し、中学校に進学した。身体を動かすことは好きだったので運動部に入ろうとは考えていた。バスケ部、サッカー部、陸上部、バドミントン部、柔道部、卓球部・・・。色々な部活があった中で、選んだ部活は野球部だった。あんなに避けていた野球だったのに、心のどこかでは兄貴に憧れていて、自分もやってみたかったことに気づいたのだ。
兄貴に遊んでもらっていたおかげで、人並みにキャッチボールくらいはできるようになってはいたし、プロ野球を観るのは好きだったのでルールは一通り理解していた。運動全般が好きだったし、運動神経は悪くないと自負はしていたけれど、やはり少年野球をやっていた子達とは技術的に大きな差があった。特に難しかったのはゴロを捕ること。ショートバウンドで捕るという感覚がどうしても掴めなくて、本当はやってみたかった内野手になることを諦め、最初に選んだポジションは外野だった。
入部してから少し経った頃、部活の監督から、「ピッチャーをやってみないか」と打診された。野球の基本的な技術は未熟だったけれど、キャッチボールだけは人並みに出来ていたので、ピッチャー不足のチーム事情もあり目を付けてくれたのだろう。
それからしばらくは外野とピッチャーの練習を半々くらいでやるようになり、たまに練習試合でも投げさせてくれた。ただ、ストライクを投げることはそれなりに出来ていたけれど、いくら練習してもカーブが上手く曲がらなくて、並のストレート一本ではなかなか抑えることが出来ず、中2の中体連が終わって上級生が引退したタイミングで、3年生が抜けてポジションが空いたキャッチャーへのコンバートを命じられた。
ピッチャーの練習をしていたので、配球のことはよく考えていたし、当然投げる練習はたくさんしていたので送球にはある程度自信があった。普段から守備体形の事とかを考える事も好きだったので、チームメイトへの指示出しも苦ではなかったけれど、問題はキャッチングだった。
監督がチーム用の新しいキャッチャーミットを新調してくれたのだけれど、最初は硬くてボールを掴むことがやっとなくらい。そして硬いミットが言い訳にならないくらい、キャッチングも下手くそだった。毎日家でミットにボールを当ててポケットを作り、秋の新人戦でようやく使えるくらいの柔らかさになった。同級生のエースの球も受け続けたおかげで、その頃には少しはキャッチングも上達し、多少はキャッチャーらしい仕事が出来るようになっていた。
一方で、素振りは欠かさずやってはいたけれど頭はいつも守備の事でいっぱいだったので、バッティングはそれほど上達せず、7番キャッチャーが定位置。エースがしっかりしていたので、ある程度守れるチームではあったけれど、試合に勝てるかどうかは主軸のバッティングの調子次第といった感じだった。
中3の春の大会は、投打がかみ合い市内の大会で準優勝することができたけれど、最後の中体連は打線が沈黙し、地区2回戦で0-1で負けてしまい、中学最後の夏はあっけなく終わってしまった。
少年野球から続けてきた子達は、自分達の限界を感じたのか、野球は中学までで辞めると言う人が多かった。自分はというと、兄貴が通っていた高校が公立の進学校ながら野球部も強く、地区予選を勝ち抜いて地方大会まで進むことは常連となっていて、公立の雄と言われるような高校で、まだ不完全燃焼の自分はそこに進んで続けたいと思うようになっていた。
あれだけ格好良かった兄貴でさえ、その高校ではレギュラーを掴めずに終わってしまっていたので、自分がその高校で活躍できるようになるには相当な努力が必要だろうとは思っていた。それでも、それ以上にもっと野球が上手くなりたいと思う気持ちが強くなっていたのだ。
高校時代
必死で受験勉強を頑張り、なんとか兄貴と入れ違いで同じ高校に進学する事ができた自分は、意気揚々と野球部に入学した。
同期は10人いて、うまいことセカンド以外のポジションに分かれていた。自分は中学ではキャッチャーだったが、硬式上がりの捕手がもう一人いて、中学から始めた自分が正捕手になれる自信は無かった。それならばと、空いているセカンドで一からやり直す道を選んだ。
中学で一度断念した内野手だったが、キャッチャーで後ろに逸らさない練習は散々してきたので、どんなに強い打球でも、手の届く範囲であればグラブに当てることは出来るようになっていた。ただ、前に落とすことは出来ても完全捕球して素早く送球することはなかなか上達せず、普通のセカンドゴロであればそれでも間に合うのだが、特に体を反転させて投げなければならないセカンドへの送球の動きを身に付けるのに時間がかかった。
そうこうしているうちに2年生になり、守備がめちゃくちゃ上手な後輩が入部してきた。自分よりも細くて非力だったけれど、元々中学の強豪チームでセカンドをやっていただけあって、守備は先輩に肩を並べるくらい上手かった。
やがて高2の夏が来て、一つ上の先輩方は地区予選を勝ち上がり、地方大会の決勝戦までコマを進めた。あと1勝で甲子園というところだったが、決勝戦では私立の強豪校に力負けして準優勝に終わった。
自分の代で一つ上の代のレギュラーに入っていたのはショートの一人だけ。監督からは史上最弱と評された自分達の代の戦いが始まった。ただ、それと同時に自分の野球選手としての人生は、急速に終わりを迎えようとしていた。
監督は実力が同じならば次の代のことも考えて下の代を優先して使う。そして、セカンドの次のレギュラーには守備力の高い1年生が選ばれたのだ。
公立高校の進学校が私立の強豪校と対等に戦うためには、超効率的な練習が必要になる。必然的に、レギュラー候補とその他の部員では扱いが代わり、レギュラーから脱落したものは、レギュラーのサポート役を務めることになる。それが決定的になるのが、2年生の秋の新人戦の時期なのだ。
外野手であれば競争させながら選別していくこともあるが、内野手となると話は別だ。細かい連携プレーなどを完璧に出来るようになるために、レギュラー組は何度も反復練習をするので身体に覚えさせることができるが、控えメンバーはレギュラー組の練習を見て目で見て覚え、たまに交代で入った時にぶっつけでやるしか無い。
自分の場合はポジションを争う相手が後輩だったので、練習試合では1年生に経験を積ませるために、ダブルヘッダーの日でさえも自分には殆ど出場機会は与えられなかった。何試合かに1打席立たせてもらえるかどうかの中では、結果を出してアピールすることも出来ず、自分たちの代の最初の公式戦となった秋の新人戦では14番でベンチ入りしてチームは地区予選の決勝まで進んだものの、一度も出場させてもらうことは出来なかった。
雪国では冬の間は試合ができないので、その期間だけはレギュラーも控えも関係なく平等に練習ができた。しかし、春を迎えてもレギュラーと控えの序列は変わらなかった。
そして迎えた春の地区予選。自分は相変わらず背番号14だったが、1回戦の大差がついた場面で、初めて途中出場をさせてもらうことができた。過去の先輩たちの例を見ても、自分に与えられる最後の打席になる可能性が高かった。ストライクが来たら打つことだけを考え、やや外角の球を打ち返した打球はセカンドの左をゴロで抜けていくセンター前ヒットになった。
レギュラーで活躍することを目標にしていた自分にとって、試合がほぼ決まった場面での会心のあたりではないヒットは心から喜べるものでは無かったが、1本も打てずに終わるのと比べればとても価値のある結果だと思えた。野球の神様が与えてくれた記録だと思い、自分の選手としての野球人生はこの試合で最後だと割り切ることにして、そこからはチームが甲子園に行けるように全力でサポートすることを心に決めたのだった。
チームメートのサポートで特に力を入れたのは、バッティングピッチャーと守備練習時のランナーだ。その頃から、野球をやってきたからにはなんでも出来るようになりたいと思い始め、バッティングピッチャーでは中学の時に諦めたピッチャーの練習のつもりで腕を振り、球速とコントロールを磨く事ができたし、シートノック時のランナーは実戦経験不足を補うことができた。
その他にも、フリーバッティングでの守備は生きた打球の練習になったし、ブルペンキャッチャーはエース球の球速に目を慣らすのに役立った。秋の新人戦から務めているサードコーチャーでは、監督の戦術や相手守備の洞察、相手ピッチャーの癖を盗む訓練にもなった。
試合に出れないマイナスをそんな風にして補うことで、野球のスキル向上は諦めずに、チームメイトと一緒に甲子園に行くことだけを目指して迎えた高校3年生の夏の大会。地区予選の1回戦で、野球の神様がもう1度チャンスをくれた。大差でリードした7回の守り、セカンドで途中出場させてもらうことができたのだ。1死1塁となり、次のバッターはボテボテのショートゴロ。チーム一の守備力を誇るショートが珍しく握り変えをミスしてワンテンポ遅れてセカンドに送球してきた。自分はランナーとの交錯を避けるためにベースの後ろで送球に備えていたが、咄嗟にベースの前に構え直して捕球し1塁走者をフォースアウトにした後、即座にファーストに転送してダブルプレーを成立させ、コールド勝ちに貢献することができた。チームメイトたちも自分がなかなか試合に出れなかったこと気にしてくれていたので、良いプレーを出せたことを心から祝ってくれた。
監督からも過去一の送球と褒めてもらうことができ、なかなか使ってもらえなかったこともあって正直あまり好きな監督ではなかったが、腐らずにやってきた甲斐があったと素直に思うことができた。
次の試合からは、またいつものサードコーチャーに戻り、レギュラーメンバーのサポートの日々が続いたが、すっかり踏ん切りがついた自分は、チームメイトたちと一緒に本気で甲子園を目指していた。私立の強豪校のように絶対的な力は無いものの、エースと主砲は引けを取らない実力があり、その他のメンバーもそれぞれが出来ることを最大限に発揮して地区予選を突破。地方大会でも名だたる強豪校を撃破して、前年度の先輩方に続き、決勝戦までコマを進めることができた。
決勝戦は生憎の雨模様の中での開催となった。試合は5回まで5ー0と優位に試合を進めることが出来たが、途中雨が強くなり中断。その間に、ほとんどの試合で完投し満身創痍で投げ続けていたエースの肩も冷えてしまい、再開後は徐々に点差を縮められ、相手の主砲に満塁ホームランを浴びるなどして甲子園への夢は絶たれたのだった。
大学受験
高校野球を引退した後は、自分には何も残っていなかった。自分から野球を取り除いたらこんなにも何も残らないものなのかと、野球を辞めるまでは考えてもいなかった。
高校生活の全てを犠牲にして注ぎ込んできた野球で活躍することも出来ず、このまま浪人生活に突入するのは親にも申し訳なさすぎると思い、高校3年生の夏が終わってからは、野球に注ぎ込んできた全てを勉強に全振りした。
朝練の反動で半分寝ながら授業を聞いて理解できなかった内容も、一から教科書を読み直して順番に問題を解いていくと、少しずつ理解できる問題が増えていった。最初の模試の出来が悪すぎただけに、勉強をすればするほど伸びていく点数が面白く、上げられる重さがが増えていくウェイトトレーニングと同じように、目に見えて成果が出るのは楽しかった。塾に通う時間ももったいないくらいだったのでひたすら教科書で勉強し、独学のみでセンター試験に臨み、ギリギリで志望する地元の国立大学のボーダーラインより下の危険ラインにかすることが出来た。
勉強を始める前からの伸び率で行けば、まだ逆転は可能だろうと諦めずに勉強を続け、二次試験では高得点を取ることができ、何とか志望大学に合格することが出来たのだった。
大学時代
高校で精一杯頑張ってもレギュラーになれなかった劣等感もあり、本気の野球はもうやらないと決めてはいたけれど、完全に辞めてしまうのはもったいないと思い、大学では軟式野球サークルに入った。
遊びのつもりで入ったサークルだったけれど、実はその大学には正式な軟式野球部がなく、幾つかある野球サークルを代表して地域の大学対抗のリーグ戦にも出ているサークルだった。
そこのチームメート達には高校野球の経験者が少ししかおらず、レベルは決して高くはなかったが、皆練習熱心だったので、自分が高校でやっていた練習方法なども取り入れていくうちにチーム力は向上していき、大学4年生の時には大学対抗のリーグ戦で2位に入り、地元開催のため2チームが出場できた大学軟式野球の全国大会にも出場することが出来た。
硬式野球部と比べるとレベルは本当に草野球に毛が生えたようなレベルだったけれど、経験値だけで色んなポジションをやらせてもらったし、そこそこに活躍することもでき、楽しく野球が出来た大学時代だった。
社会人時代①
地元を離れ、東京の会社に就職した自分は、自己紹介で野球をやっていたことを話すと、即座に会社公認の野球部に勧誘された。
会社公認の野球部といっても社会人野球の大会に出ているわけではなく、同業者の協会で作っている年1回の大会に出場しているだけの部活だ。皆仕事が忙しいので全体練習などあるわけでもなく、練習試合もしないままぶっつけ本番で大会に出るというなかなか無茶な部活だった。
自分は基本内野手で、エースが仕事で不在の時はピッチャーを任された。ちょうどその頃に発売されたダルビッシュ有監修の変化球バイブルを熟読して、ちょっとしたスライダーを覚えることもでき、細々ながらも楽しく野球を続けることが出来たのだった。
社会人時代②
やがて同郷の今の嫁さんと出会い結婚して長女が生まれ、次女が出来たタイミングで地元の会社に転職した。
転職先の会社にはちゃんとした野球部があり、都市対抗野球の定連だった。それとは別に、同じ部署の先輩社員が中心となって作っている草野球チームもあって、ここでも勧誘してもらい野球を続けることが出来た。
そのチームのエースは60歳超で、コントロールだけで相手を抑える超技巧派だったが、流石に長い回は投げられず、代わりのピッチャーを必要としていたので、ここでもピッチャーをやることが多かった。
その中で新たにスローカーブとナックルカーブを習得でき、30代半ばにして変化球で空振り三振を奪う楽しみを味わうことが出来るようにもなった。
年齢とともに体力の衰えは感じたものの、野球が出来ることに感謝をしながら続けてきたが、新型コロナウイルスの影響で毎年参加していたリーグ戦が中止となり、それ以降は人も集まらなくなってチームは解散してしまった。
ちょうどその少し前に娘たちがミニバスを始め、帯同審判員が必要だったことから、休日の時間は徐々にそっちに移ってはいたものの、野球が出来る環境はコロナによりあっけなく無くなってしまったのだった。
息子が少年野球へ
次女が生まれて3年後に長男K太が生まれたのだか、姉二人がバスケをやっていても興味を示さず、友達と公園で遊んだり釣りや虫取りをする方が好きなタイプだった。何度か少年野球のチームが練習をやっているグラウンドの傍で遊んだりもしたのだけど、野球にも興味を示すことはなかった。
そんな息子が小学校3年生になる春に、WBCで侍ジャパンが優勝したこともあり、急に野球に興味を示し始めた。この機会を逃すまいと、近くの少年野球団の体験に行くと、メンバーのほとんどは隣の小学校の子だったが、仲の良かった同級生も同じタイミングで体験に来ていて、一緒に入団することになった。
K太が3年生の間は、次女のミニバスの最終年度だったので、そっちにつきっきりでK太はチームにお任せ状態だったが、ミニバスが終わった冬から徐々にK太の野球の練習に同行するようになり、保護者によるお手伝いとして再び野球に関わることとなり、今に至っている。
長々と、只々自分の野球人生を振り返ってきたが、自分の中での野球のピークはやはり高校3年生の夏だった。
たったの1打席と1度の守備機会で得られた経験が今も忘れられず、心のどこかでまだ野球がやりたいという気持ちが残っているから、今もこうして野球に関わっていられるのだろう。
そして、野球があったことで、初めて出会った人達にも割と簡単に溶け込むことができ、人付き合いの面では特に、楽に生きてこられたように思う。
K太には、自分の夢や希望を押し付けるつもりはさらさらない。そもそも行きたかった甲子園にはほぼほぼ片足を突っ込む経験ができたし、プロ野球選手になりたいとかそんな夢を持ったこともない。
ただ息子と一緒にキャッチボールが出来る。自分としてはそれだけで十分に幸せを感じられる。せっかくだから、自分が身につけてきた知識や技術は、可能な限り教えてあげたいとは思うけれど、兎にも角にもK太がこれからも野球を好なまま、楽しんで続けてくれる事を願うばかりである。
以上、こんな取り留めもない長文を最後まで読んで下さった方がいましたら本当にお疲れ様でした。
下記のマガジンは、息子に新しいバットをメルカリで買ってあげたことを記事にしたら、noteとメルカリのコラボイベント「#メルカリでみつけたもの」で受賞してしまったことをきっかけに、息子のK太が野球を始めてから打ったヒットを中心にして、息子の野球の観戦記録を書き綴っているものです。
将来いつか息子がお酒飲めるようになったら、この記録を振り返りながら野球談義に花を咲かせるのが次の夢でもあります。もし興味がありましたら、お時間のある時にでもお立ち寄りください。
それでは、長文にお付き合いいただきありがとうございました。