2024年6月 観た映画感想文
タイトルの通り、2024年6月に観た映画の感想文です。
対象は映画館で観た新作のみ。
ストリーミングで観た分や再上映で観た過去作品、テレビアニメなどの総集編作品、観るのが2回目以上の作品などは末尾にタイトルだけ備忘録として書いておく感じでいきます。
前月の分はこちら↓
関心領域
コンセプト一本勝負といった趣。
よく一緒に並べて語られがちな『ヒトラーのための虐殺会議』がアッパータイプの作品だとしたら、この映画はダウナータイプの作品。
アウシュヴィッツ強制収容所の所長を担っていたルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスという男が主人公である、という紹介だけでどういった作品なのかは何となく察せられることでしょう。
個人的にはアッパーなノリを期待してたから思ってたような感じではなくて正直なところちょっと肩透かしを食らった。
この映画で最も特筆すべきは「退屈である」という点だと思う。
冒頭、休暇に川辺へと出かけベリー摘みと川泳ぎに興じる主人公一家の団らんシーンから始まり、そこからただ淡々と彼ら彼女らの「普通の生活」を映すホームビデオのような場面が続く。
カメラの位置は基本的に固定されていて、視点が切り替わりこそすれ視野が動くことはほとんどない。
このカメラワークを極力排除して定点映像を多用するという演出も相まって、本当にただただ一昔前の生活模様が記録されているだけとしか思えない映像が終盤まで延々と続く。
物語的な起伏も微々たるもので、本当に「退屈」で仕方ない。
そんな「退屈」の舞台が「アウシュビッツの隣に建つ邸宅」だという点を除けば何とも長閑なものである。
一日中遠くから苦悶の叫び声が聞こえたり、焼却炉の煙突から何かを燃やす煙がずっと出てたり、川遊びをしていたら川上から大量の灰が流れてきたりするだけで、いたって普通の穏やかなありふれた日常ですからね。
叫び声や煙や灰なんかより、主人公の唐突な転勤で引っ越すかもしれないってことの方がよっぽど重要ですから。
今さら引っ越しするだなんて考えられない。
せっかく手塩にかけてガーデニングしてきた庭園を今さら手放して他人に明け渡すだなんて、そんなの絶対に受け入れられない。
上からの命令で仕方ないことだってことはわかってる。
けど、転勤するにしても単身赴任で対応して欲しい。
やっとの思いで築き上げてきたこの生活を志し半ばで諦めるだなんてあまりにも辛すぎる……と、そんな感じのいざこざ。
客観的に見てこれがどれだけグロテスクで異常な状態であるかは言うまでもない。
人はどこまで行っても見たいものしか見ることができない、というより、見たいもの以外には徹底的に無関心であり続けてしまうことができるのだということを思い知らされる。
とはいえ、別に面白い映画じゃないし、そもそも作品の持つ意義とか意味を意識しながら観ないと「何だこれ?」ってなる可能性も高いなと思う。
けど間違いなく一見の価値は確実にある。
ただ最後のシーンがどういった意図を持っているのかはよくわからなかったな……。
マッドマックス:フュリオサ
俺たちのジョージ・ミラーという男はやっぱりどうしようもなく天才でしかないんだよな、ということを再確認した。
全編にわたってとんでもない密度で繰り広げられる容赦ない暴力、暴走、爆発、爆音の嵐。
思わず「これだよこれこれ!これを待ってたんだ!!」と胸が高鳴ってしまった。
ただいくら「暴」と「爆」に彩られているとはいえ前作の『怒りのデス・ロード』と比べるとどうしたって画面的な迫力は少々見劣りする……が、それはもう仕方ない、前作があまりに仕上がりすぎているだけである。
最初フュリオサ役がシャーリーズ・セロンから変更されると聞いた時は少し懐疑的に思ってしまったけれど、主演のアニャ・テイラー・ジョイはそんなつまらない不安を軽々と吹き飛ばすほどのパワーで俺の惚けた頭にガツンと一発キメてくれた。
それからフュリオサの母、メリーを演じたチャーリー・フレイザーがビジュアルもキャラクター性もマジでかっこよくて強烈なインパクトがあった。
何なら序盤は完全にフュリオサではなくメリーの映画として構成されていて、その魅力を目いっぱい前面に押し出した作りになっている。
チャーリー自身の本職はどうやらファッションモデルらしく、調べる限り俳優としての出演作品は今作を含めて2本しかないようだけど、恐らく今作を切っ掛けに大きく跳ねる役者の一人なんじゃないかと思う。
主人公がマックスではなくフュリオサだからなのか作中でラブロマンス要素が描かれるんだけど、これは少し「らしくない」感じがした。
一方、マックスという男が主人公に据えられている限り「性愛」を作品のテーマに入れ込みがたいという過去作の側面を鑑みれば、ラブロマンス要素に関しては「ならでは」と表現することもできる。
これまでのシリーズ作品からは少し外れる(主人公が違うから当然ではある)一本という事実は否めないものの、作品の強度としてはまったく見劣りすることがない。
どうやら風の噂じゃマッドマックス・サーガはまだまだ続くとのことらしいけど、『怒りのデス・ロード』から今作が公開されるまで10年かかったことを考えるともうしばらく首を長くして続報を待つ以外に道はない。
ちなみに過去作を観ていなくても何も問題ないような作りになってるからシリーズの入り口としても最適です、オススメ。
ハロルド・フライのまさかの旅立ち
個人的にかなり好きな感じの映画だった。
ロードムービー好きになりがちだし、主人公がジジイだとなおのこと好きになりがち。
「まさかの旅立ち」と訳された原題は「Unlikely Pilgrimage」で直訳すれば「意外な巡礼」あるいは「ありえない巡礼」になる。
「巡礼」を辞書で引いてみれば「聖地や霊場を巡拝する旅によって、信仰を深め、特別の恩寵にあずかろうとすること。また、その人。(cf.デジタル大辞泉)」とある。
事実、主人公のハロルドが突発的な思いつきで始めたイングランドを縦断する徒歩の旅は、まさしく巡礼そのものだった。
ある日ハロルド・フライのもとに届いた一通の手紙、その送り主は遠く離れたホスピスで終末期医療を開始した古い友人で、手紙の内容は別れの言葉だった。
ハロルドは返事の手紙を書くものの、それを投函する前に立ち寄ったマーケットの店員の何気ない一言を聞いて、友の待つホスピスまで徒歩で向かう旅をすることを思い立つ。
勢いそのままホスピスに電話をかけ、友に「ハロルド・フライが歩いて向かう。私が着くまで元気に少しでも長生きするんだ」とメッセージを残し、彼は片道およそ800キロの旅路を歩き始める。
旅の道中でハロルドは様々な人と出会い、様々な出来事を体験して、様々な発見をしたり、あるいは様々なことを思い出したりする。
観客である我々は彼の旅の先行きだけでなく、彼の半生をもともに追憶することになる。
道すがら立ち寄った観光地で絵葉書を買っては友の待つホスピスへ送り、自分がまだ「巡礼」を続けていることを伝えながら、自身の思いが少しでも友の命の支えとなることを祈りながら今日もまた歩く。
……なんというか、こうやって書き出すとあらすじの時点でもう既に「うわ!絶対良い映画じゃん!」って感じがありますよね、事実良い映画だし……。
作品の折り返し地点での紆余曲折を経て、老若男女、色んな人が「自分もあなたと一緒に歩きたい」と言ってハロルドのもとに集まってきてしまう。
最初こそハロルドも彼ら彼女らを受け入れていたものの、徐々に肥大化していく旅の一団からは明らかに「そうじゃない」感が漂い始める。
この「そうじゃない」感の描き方が絶妙に皮肉めいていて何ともイギリスっぽいセンスを感じた。
結局ハロルドは早朝に単身出発することで一団を振り切り、また一人の旅に戻ることとなる。(ここでしぶとく後を追いかけてきて付いて行こうとするヤツが件の一団の中には誰一人としていなかった、という描写も非常にシニカル)
なぜなら彼が歩んできた「巡礼」は病床に伏せる友のためであり、何よりそんな友のために不器用ながら祈りを捧げる彼自身のためでもあるから。
歩く途上で変わったこと、変わってしまったこと、変わらずに残っていること、今さら変えようがないこと。
これら4つの対比がとても印象に残っている。
ハロルドが歩き抜いたそれまでの道のりや作品中盤あたりの盛り上がりを思うと、正直この映画はかなり静かで地味な着地をする。
人によっては尻すぼみな展開のように思えるかもしれないが、しかしこれでいい。
祈りの本質とは結果を求めることではないのだから。
オススメです。
ザ・ウォッチャーズ
毒にも薬にもならない感じで本当に評価に困る。
観ていて退屈するほどしょうもない映画ではないものの、かといって面白いかと言われると別にそこまででもない。
「訳の分からなさ」一本のみを軸にして物語をドライブさせていた弊害なのかなと思う。
主人公以外の登場人物、迷い人を誘う森とその中にポツンと現れるコンクリートの直方体、主人公たちが置かれる状況、夜になると現れる謎の存在……と、登場する要素がとにかく「訳の分からなさ」に満ち溢れていて序盤の盛り上がり方は目を見張るものがある。
ただ物語が進むにつれて段々とその肝心の「訳の分からなさ」が解消されていってしまい、致命的に盛り下がる結果となってしまっていた。
ではこの「訳の分からなさ」を解消せずにそのままズンズン進めればよかったのかというと、存外そういうわけでもない。
残念ながらこの映画にはそれが無かったというだけで、「訳の分からなさ」が解消されることによって発生するカタルシスというのが世の中には存在している、というのもまた事実。
かなり難しい舵取りを要求されるから当たればとんでもなく跳ねるが、その代わり当たらなかった時のスベり方も派手。
ある意味でギャンブルに負けたと表現できそうな作品だなと感じた。
しかしそれでもひとつだけ文句をつけるとしたら「観測者」たちの姿をハッキリと映してしまったのは本当に悪手だったと思う。
せいぜいシルエットまでで済ますか、あるいはもっと異形のクリーチャーとしてデザインした方がまだ納得感があった。
あんなデザインじゃ正体を明かされたところで興醒めしちゃうに決まってんだよな。
数分間のエールを
タイトルにもあるように、全ての創作者たちに対する「応援」の意が込められた作品だと感じた。
そしてそれと同時に「こうであって欲しい」という「祈り」みたいなものも込められているなと思う。
個人的にはこの「祈り」の側面が少々押し付けがましく感じられてしまった、というのが正直な感想。
創作という行為、物作りを通して何かを生み出すという営みを神聖視しすぎではないのか?と思ってしまう。
一方で、何かに全身全霊で取り組むということの素晴らしさが懸命に描き切られているところに胸を熱くさせられた。
観終わった後は「自分も何かを作ってみよう」と前向きな気持ちになる
本当に良い作品だと思う。
ただ、この映画に対する印象は主人公のキャラクター性を受け入れられるかどうかでかなり分かれるんじゃないかと思う。
「MVとは楽曲を応援するアイテムである」という主人公の信念はまったくもってその通りだと思うが、その信念一本で暴走し始めるのがよくない。
MVは作るうえで楽曲を吟味し、解釈するという作業が必須なのは言うまでもないけど、しかし主人公はこの「解釈」をするうえで何か「指向性」のようなものを持ってしまっていた。
楽曲そのものをそのものとしてフラットな目線で解体するのではなく、自分の中にある決められたフレームの中に都合よく合うように対象の形を整えながらそこへ押し込んでいく……主人公にはそうやって「自分のためだけの理想化」をしてしまうという「手癖」があった。
この「手癖」によって致命的な挫折を経験することになるんだけど、観ている側からすりゃそらそうだろとしか言いようがない。
独善的で、視野が狭くて、自分がそう思うから他人も同じように思うに違いない、そうに決まっている……と、件の致命的な挫折を味わうまでの主人公はとにかく悪い意味でどうしようもなく青臭い。
あと冷静に考えるとやってることがほとんどストーカーじゃないか?となる問題行為がたびたび飛び出す。
そういった面もあり、恐らく途中でギブアップしてしまいたくなる人もきっといるんじゃないかと思う。
ただ擁護するとしたら、こういった青臭さはありとあらゆる創作活動の初期衝動としてありふれたものだろう、ということをちゃんと付言しておきたい。
つまり、主人公はかつての我々の姿でもある(のかもしれない)ということ。
一度でも「物を作る」という行為に手を染めてしまった人間であればそのことがよく分かるだろうとも思う。(そしてこの「思い」は私自身の「理想化」であり「祈り」でもある)
物語の終盤、件の致命的な挫折を経て主人公は自分がどれだけ浅はかで、視野狭窄で、他人のことを微塵も考えていなかったのかということをようやく思い知る。
自分が見ていたのは人や楽曲ではなく、「手癖」により自身の中で「理想化」させて出力した虚像だったのだということを思い知る。
彼の偉さはそこで完全に折れてしまうことなく、そしてかつての自分の青臭さを捨てることもなく、もう一度立ち上がって己の至らなさに真正面から向き合ってみせたところにある。
その姿が私にはたまらなく眩しかった。
腐らずにいるというのは本当に難しい。
そのことを理解しているからこそ、彼の取った選択がどれほどの覚悟とエネルギーを必要とするものだっただろうかと思案する。
相変わらず青臭さは鼻につくけれど、一連の出来事を経てクリエイターとして一皮剥けた主人公のことが少し羨ましいとさえ感じた。
間違いなく人を選ぶ作品だとは思うけど、個人的にはかなり好き。
凝ったアニメーション表現が盛りだくさんで映像作品としてもかなり楽しめる一本です、オススメ。
ルックバック
第一印象として、かなり誠実な映画だな~と思った。
ただひたすら藤本タツキの原作マンガを丁寧にアニメ化しただけの作品で、それ以上でもそれ以下でもない。
全144ページの読み切りを一本の映画にするのはどうしたって無理がある。
一般的に映画は100分~150分、短くても90分程度が上映時間の定石だとは思う。
原作マンガは綺麗にまとまっていて実際のボリューム以上に満足感があるのは言うまでもないけど、90分以上の映像化を図ろうとすれば単純に尺が足りないのは自明だった。
何がしかの要素をもっと大々的に付け足して引き伸ばすといった選択も当然あっただろうことは想像に難くない。
しかし最終的には必要最低限の補足を除いて何も足さず、何も引かず、原作マンガが持つ作品としてのパワーを信じて出来る限りありのままが描かれた。
結果的に上映時間は58分、一切の過不足はなかったと思う。
これは観客に対しての信頼の表れでもあるように感じる。
原作のことを少しでも知っていれば短い作品になるのは当然で、それを理解したうえで観に来ているんでしょう?という信頼。
ただやっぱりさすがに短いかな……と考えたのか特別興行で料金1700円均一にこそなったけど、個人的にはそうする必要すらなかったと思う。
というのも、我々観客がこの作品に何を期待して映画館へ足を運ぶのか、についてをこれほど深く吟味している作品というのもなかなかない。
こういう作品には変に畏まるよりも堂々としていて欲しいという思いがある。(マーケティングとか考えるとそうも言っていられない事情があるのかもしれないけど……)
映画の中身の話をすると、恐らくこのアニメを作った人たちは原作マンガのことが相当好きなんだろうなということを強く感じた。
だからこそ大切に大切に、何一つ取りこぼさないよう扱っているのがよく分かる。
しかしそれ故になのか、良し悪しは別として、原作マンガと比較するとどこか湿っぽい。
描かれた物語に反して全体の印象がやけにドライに感じられるっていう藤本タツキの作風が第一の要因だとは思うけど、恐らく原作マンガに込められた祈りのような側面がアニメーションに起こされていく過程でかなり増幅されていったのではないかと思う。
物語の全容を把握していればそうなってしまうのも仕方がないというか、然もありなんといった感じがしないでもない。
むしろアニメの製作陣の心情を慮れば、ドライに描こうとする方が無理あるとも言える。
ただこの湿っぽさは少し人を選ぶ要素にもなり得るかなと感じた。
エンディングテーマのタイトルが「Light song」なのが個人的に良いな~と思う。
一体何の「光」なのか、あるいは何の「明かり」なのか……と思いを馳せつつ、Oasisの『Morning Glory?』を聴きながら帰路につくあの感じには堪らないものがあった。
ストリーミングで観た作品など
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