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擦れた銘板 THE GREATEST UNKNOWN 〜拝島駅北口彫刻の銘板について

Intermission. 擦れた銘板 倉澤實『四角柱上の胸像』の銘板について

Googleマップより
Googleストリートビュー拝島駅北口
倉澤實『四角柱上の胸像』前

拝島駅北口にあるこの現代彫刻、実はもう50年以上前に作られたものです。
その長い間に設置場所はこの駅前周辺エリア内で移設を重ね、ようやく現在の場所に落ちついた…というお話。

今回注目してほしいのは作品内容ではなく(すみません)、こちらの脚付きの銘板のこの状態。
…どうも素材に経年を感じませんか…?

左下「平成3年度設置」の文字は
平成3年(1991年)頃に足されたもの?
実はフォントが少し違う

全体の文字もよくよく見ると
元の打刻に塗りが足されているような…

…つまりこの銘板
「平成3年度 復元改修後改めて設置」されているのです。
何故こんなところに注目しているかというと、私筆者は複数の人からこのように聞いたからなのです…

「その銘板、1971年(昭和46年)にはあったよ?」


登場人物紹介

最上(もがみ)先生 …彫刻家。この彫刻ではなく、横浜みなとみらいにある作品の作者。
武蔵野美術大学彫刻科の教授をしていた 。             (1936生-2018没) 

Nob(ノブ)さん …下田信夫画伯。航空界隈ではとても有名なイラストレーター。
ヒコーキマニアの重鎮。 (1949生-2018没)

Googleマップ より

さて、今回は拝島駅北口前の彫刻の話です。
この彫刻の作者・倉澤實(倉沢実)さんは、東京藝術大学彫刻科卒、同じく藝大(芸大)彫刻科卒の最上壽之(最上寿之)先生の一年先輩、卒業年は同期の彫刻家です。

…そう、chapter1. から武蔵美の話ばかり
しておいて何なのですが
最上先生は武蔵美ではなく芸大卒です
そしてこの時は多摩美の非常勤講師です
倉澤實記念館HP より

そしてchapter1. から読まれている
親切な読者はお気づきでしょうか…
源田實(パイロット)・倉澤實(彫刻家)・
最上壽之(彫刻家)
皆様お名前の漢字が旧字体であることに…
最上先生はそこに親近感を持っておられました

そういえば芸大も「東京藝術大学」ですね
倉澤實記念館HPより

倉澤さんには筆者直接面識はなく
今回「倉澤先生」でなく「倉澤さん」で
通させていただくことご容赦ください

これまでに連作としてNobさん(下田信夫画伯)と彫刻家最上壽之先生と横浜みなとみらいの彫刻について書いています。

今回はintermission、読み切りで1971年のお話です。

今回のストーリーの始まりは前回chapter3. で少し紹介した1971年、若き日のNobさんと最上先生の二人が米軍横田基地外柵で出会った時の場面から…

chapter3. より再掲↓ここ

1971年秋、ブルーエンジェルス(米海軍のディスプレイチーム)来日の時のことである。もしかしてひょっとしたら横田に来たりしてと思って二人ともそれぞれで横田外柵を訪れていた。
待ってはみたが残念ながら横田には来なかった。
それで二人は話してみたところ帰り道が一緒だったので西武拝島線の拝島駅から西武線に乗って電車内でもお喋りしながら途中まで一緒に帰った。

西武線users

(拝島駅南口はJR国鉄)
西武線なので拝島駅北口です

この時のこと。二人は倉澤さんのこの彫刻を目にします。特にNobさんの方はその日横田へ行きの際にもここを通り、この彫刻(そして銘板)のことを気にかけています。

1968年西武拝島線 玉川上水駅〜拝島駅開通に伴い
拝島駅北口駅舎も新たに開設

北口周辺の整備は続き 順次工事が進められていた
都度通行止めや迂回路を設けながら…

たまたまこの時の通行路がそこだったそうです

Nobさんは何故それを気にかけていたか…

当初この彫刻作品があった場所は現在の場所ではなく、駅北口から出てすぐ近くの玉川上水沿いで…

こっちの辺りにあった↗

…そこに架かる新たに建設中の橋「平和橋」工事現場で、もともとあったこの彫刻が行き場を無くし持て余されその辺に放置、
なんと銘板は

そこらの地面に適当に敷かれた状態だった

からです…。

人や自転車が踏むところに敷かれてた
って聞きましたよ…
歴戦
そんなこともあった翌年 昭和47年(1972年)
無事平和橋は完成
Googleマップ「平和橋」より

もともと国鉄(JR)から基地へ続く引込線は
ここで上水を渡っていて その横に並走する形で
人や車も通れる橋が整備されました
「平和橋のいわれ」
ちなみにこちらの案内碑は平成10年(1998年)建立
ですが
左の人の名前が入った部分と中央「平和橋」は
1972年建設時からのものか
銘板の脚は後になって付けられたもの

読みやすくなり もう踏まれない

1971年の話をします。
Nobさんもよくぞ気付いたという話なのですが、工事の人も彫刻作品の方はともかくその銘板を大事なものだとは思わなかったのでしょう。
その時はただの金属板の扱いでした。

確かに無名の学生あがりの若手作家の作品ではあったのです…

…但し1971年当時はですが。

作者倉澤さん、芸大卒業後しばらく美術学部副手として大学に残った後、海外…メキシコの美術学校へ…そしてメキシコ国立の文化博物館に勤められている為(〜1971年)、芸大筋では知られているものの日本の世間的にはその時ほぼ知られていないのですよね…。

美術学部副手 …武蔵美では「助手」「教務補助」と言っていたが多分同様の役職だろう。
先生方の下で実技教務の補佐をしながら、業務外の時間を使い学内で制作に励む若手作家のイメージがある。
学生にとっては実際は先生方より身近な指導者でもあった。

『鷺舞』(1994)
島根県津和野町 鷺舞モニュメント広場

倉澤實記念館HP 立体・戸外 の頁より


そしてここを通ったこの二人もほぼ無名の彫刻家とイラストレーター。

彼らも何者でもなかった'71年秋のことでした。

chapter3. より再掲↓

最上先生はその春'71年4月から多摩美術大学美術学部グラフィック科の非常勤講師をしている。12月から武蔵美と掛け持ち、つまりそれまでは自由になる時間にやや余裕があったのだそう。

一方のNobさんはというと、'71年9月に雑誌『航空情報』編集部に自作を売り込み好感触を得たすぐ後の時期にあたる。これからいよいよという駆け出しイラストレーターだ。

話を戻しましょう。横田外柵からの帰りにNobさんと最上先生、若きまだ無名の二人が玉川上水平和橋建設工事現場を通りかかり、足元にこの銘板を目にした、と。で、行きで気付いていたNobさんがさっき知り合った彫刻家に聞いてみたわけですね。

Nob「ねえ最上さんこれ、彫刻のも『銘板』でいいの?そうこれ気になってて。そこのあの彫刻の銘板みたいなんですよ。これ飛行機なんかだとね『銘板』ていうんだけど。昔の計器銘板やなんかがコレクターズアイテムになってて。
…ねえこれ大事なものなんじゃない?

最「?うん彫刻も『銘板』と言うねぇ…作家名あるの?誰のだ…
おうこれ倉澤さんか!俺知ってる作家の作品だぞ!芸大出のれっきとした彫刻家だぞ。俺の1年先輩でな。卒業は同じになっちゃったんだけど。メキシコへ行くと言ってな…あのヘンリー・ムーアもかぶれたメキシコ芸術を本場で、と。…もう日本に戻ってるかな」

ヘンリー・ムーア(1898生-1986没)
 …有名な世界的彫刻家(英)。世界中に、また日本にも多くの作品があり、展覧会も幾度となく開かれている。抽象彫刻の人気作家。

wikipedia「ヘンリー・ムーア」の項より

・倉澤さんはムーアの人生の前半、
大英博物館でメキシコ芸術に傾倒し
通い研究したというところに

・最上先生はムーアの人生の後半、
数々のパブリックアート…大型公共彫刻の
注文を受け財を成したというところに
それぞれ影響を受けている

N「へえこれ、そのクラサワさんて芸大の人のなの?スゴイ!あの彫刻、鳥みたいでカッコイイと思ってた…!

注・Nobさんは横田通いで
彫刻のほうには前から気付いています

なのにこれは…酷いよね。ほら銘板人踏んじゃうよ、ああ…
これ、工事の人に言ってちょっとよけといてもらおう!やっぱり大事なもんなんでしょう?」
最「まあ作家本人に訊くにも連絡つかなかったんだろう海外だから。俺連絡つくかな。もう戻ってるかもしれない」
N「その人芸大の先輩なの?海外だなんて!凄いじゃない…工事の人に芸大ですよって言っとこう!」

よけておいてもらったらしい

最「凄いんだけど現代彫刻っていうのはものだけではなかなか理解されないからな〜台座と銘板込みだよね。だけど余程の有名作家のネームバリューがなけりゃ、その大事な銘板すら世間じゃこの扱いだ…
チキショウ!俺、移動できない位デカい作品作ってやろうかな」

高さ17m(1994年設置)
多分重機で移動は可能

N「自分もサインNob.がNo.6と間違われちゃってね。版画や限定生産のなんかはエディションナンバー付けるでしょう、ああいう意味なのかな?って見えちゃったみたい。「ああ、6枚あるのかと思った…」なんて。同じの6枚描くほうが大変だっちゅうの!
…彫刻は…へぇ、型取り!そうかそういうのもあるんだー。
うん?いや、飛行機もあれ同じかっていうとまあ工業製品なんで同じに作ってるはずなんだけど…版画のエディションも、シリアルナンバーとも言いますね。飛行機だとレジ番(機番)。そう、個体別のナンバーあるんですよ。」

No.6の話

最「版画ってエディションナンバーで値段変わったりはしないのかな?初版本が高値ついてたりするけどなぁ…
俺たちも有名になってやろうぜ!!絵だって銀座の画廊じゃ額やサインで値段が決まる。彫刻だと台座が額で銘板がサインというわけだ。
…しかもこの銘板はよくよく読むと作家からの解説のようなのも載っているからな…ものとこれとセットで作品だよな。
しかし倉澤さんもなんか難解そうなこと書いてあるな〜(俺には今ひとつわからんが)価値は美術評論家に評価されてナンボだろう」

注・筆者は(評価するのは評論家含む
鑑賞者、観客だろう)と思っている

この点 最上先生とはやや意見の相違があった

N「彫刻も台座や銘板というのは大事なんだね。…これカッコイイこと書いてあるねえ。
〈鑑賞者による像の復元の想像を期待する空間〉だって!なるほど4分の3はこっちが想像していいのね。
ものは4分の1かあ!へえカッコイイね。鳥じゃなくて4分の1だったんだ!
確かにものだけより、これも読んでものも見るほうが良さそうね。こういうのってオブジェ?なんて言うの?」
最「うーんオブジェっていうよりは…
モニュメント』かなあ。ムーアのなんかはモニュメントって言うよね。評論家が。」
N「『モニュメント』!現代彫刻っていうのは呼び方もカッコイイんだねえ…!
作った人に言っといてくださいよこれカッコイイですね是非残しましょうって。」
最「うん俺倉澤さんに連絡とってみるわ。」


その後日本に戻っていた倉澤さん本人に連絡がついた為か、作品撤去は回避されました。

Googleマップより

駅北口周辺で何度か位置変えがあったかもしれませんが、現在はこの場所(駅前ロータリーファミマ前)でのびのびと展示されています。
地元ゆかりの作家さんの作品ということでもないわけなのですが…今となってはもうこれは倉澤さんもこの作品もここにご縁があったということで良いのではないでしょうか…。

4分の1の四角柱の上に
4分の1の胸像をのせた造形
4分の3の虚の空間は
鑑賞者による像の復元の想像を 期待する空間




ここにその後のNobさん1コマイラストへの
影響をみるのもまた一興?




この件、新旧横田外柵の皆さん並びに福生市民、昭島市民の方々のご尽力ご協力を感じています。
この場を借りて Great Unknown たちへ敬愛と感謝の賛辞を…
ありがとうございました。

連作はこれからchapter4. 〜chapter6. を予定しています。
次回はもうひとつ彫刻のお話を。


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