社会復帰から感じた普通ってほんとに目指すべき場所?って疑問
ずっとギリギリの毎日だったから、
普通になれないことや、普通になるべき、をずっと義務に感じてきた、というか追われてきた感がある。
で、普通の場に属した時、これが普通でいいのだろうか、になってる。
フリーランスだったり、過労で倒れてたりして儲けや安定はほとんどない生活だったが、ひととの関わりは恵まれていたし「普通じゃない」という自覚があったからこそ、いつもなにかスキルアップすべきという概念に追われたり、人間性も高めないとクライアントさんとなるような大きな会社のひとや、社長さんや、年上のひとたちと対等に会話できないよね、という思いもあり、いつも成長しなきゃ、成長しなきゃ、と焦って生きてきた感じ。
で、いざ「普通」に足を踏み入れてみたとき、ディスる意味でもなく、これでいいのか?これが世の中がめざすべき風にあおっているキャリアとか、正しい生活(保護とか受けるとかでないという意味)なのか?ってびっくりしてしまっている。
偉いから、頑張っているから普通の生活ができてたり、スキルアップできているわけではなく、あくまで「安定」しているからできている。
それは本人の努力というより、なにごともなく、進学、就職、と進んで、思い悩むこともなく進めてきた、家庭環境とかそういうものだと思う。
自分で決めてきたようにみえて、ある一定の枠からは一度も出ていない。キャリアチェンジだって、その枠内で挑戦しているだけ。
だからなのか、そのなかでは重要な会議が、普通外にいた人間のテンションで見ると「お遊戯会」や「学級会」に見えて、何億と動いている会社の動きがこういう雰囲気を感じさせるのであれば、世の中の講座や、ソーシャルビジネスが浅くて、ほとんど課題解決になってないは納得感がある。
細い、狭い分野でのスキルを高めた人たちの場所が「普通」で、実際の「生活」をしているいろんな当事者の方が「普通」とされないの、なんかおかしいな、と思った。
どんなに意識高い系のことや、数値目標言ってても、
「今日は朝顔の水やりを頑張ります!」っていう小1の発表にしか見えない。内容はビジネスだけど。
会社規模はおおきくなかったけど、今まで出会った人とかのほうがビジネスや社会や、課題についてずっと深い話ができてたよ。たとえ、稼ぎがなくてもパートでも役職がなくても、いい会社や学歴がなくても。
そう考えると、普通って目指す必要のないことじゃんじゃないかと思ってきた。自分のいまいる場所をより充実させる(稼ぐなら稼ぐ、健康なら健康になるように)ことを考えてリソースを割いていくだけでよくて。
ただ、その自分の努力でなく、権力や資金をもつ位置にいる人たちが決定権だったり、世の中の流れを握っている現状はいかんせんどうにかならんだろうか。
いままでも感覚では感じてたけど、ふつうの場を経験したことで、より「普通の進学→就職」して安定した生活をできている人より、毎日バランス取って生きてる周りの人たちや、極端にいったらホームレスの方のほうが私にとっては「日々を生きていることにすごいな」(自分も大変だったから)という同士みたいな感覚を感じる対象であり、本人たちが気づかず自己アピールとして使っている学歴、職歴に狭さ、稚拙さを感じてしまうことを実体験した。
たぶん、わたしがもし将来企業作ったら。制度的なことは別として、「逆差別」すると思う。学歴・職歴がまっすぐすぎる人を面接で取らないだろうな、と思った。
あ、もちろん、狭い範囲ではスキルや職歴など、即戦力となる武器は重要だから、社会のスタイルを批判しているわけではなく、そこから降りたときにも、優性思想みたいなの、引き摺っているひと多いけど、狭い世界のとこから出たら、人間的にそんなに成長してこなかった人ってイメージだから、マウンティングしてこないでね、と思うだけです。