見出し画像

1000ページ以上の本

『苦海浄土』は1969年に出版されています。それを第一部として第三部『天の魚』(1974年)、第二部『神々の村』(2004年)が書かれました。
1冊にまとめられているのが1000ページ以上になる本です。

石牟礼道子さんは昭和2年熊本天草に生まれ、水俣病に関心を抱き患者さんに寄り添い、丁寧に言葉を聞き、声にならない言葉も聞いて文章にしました。多くの人のいのちが記録されています。

以下、一部を引用します。

「出征兵士をホームの影から見送って、銃後の村を守ろうとしたように、いやそれとも違う断念を秘めて、異郷の都市から、風の便りにきこえてくる声を聞きとろうとして、うかつにも化学工場を、〈みやこぶり〉と勘ちがいして劇毒もろとも懐ふかく抱き入れてれてしまったものたちの傍で、わたしの魂はゆらゆらする。」

「じっさい、漁師たちの際だった黒い顔の特徴はといえば、その目だった。都市族となってしまった人間たちの目の色には、もう見ることの出来ない海のきわの岩陰の、泉のまろい波紋のような、やわらかなまなざしに、ひとたび不思議そうに見つめられると、支援者たちは、すっかりとりこになってしまう。ほとんど通常にいえば四十男たちなのに、その目のいろの奥に、虹のようなものを持っていた。ことに佐藤武春はそのようなまなざしの奥から、いつも不思議そうに、東京中のあらゆるものをじいっとみていた。」

「 彼は自分のしがらみである有機水銀と共にいつも歩いていた。歩くという力学で、自分の中に居るそいつと自分そのものとをふり分けるように弥次郎兵衛のように、一歩一歩、歩くけいこをする。もはや一体化している有機水銀と自分とをふり分けることなどできないのだが、この世と自分との関係をとりもどすには、なんとかそうやって、大地というものに、自分自身がつっかえ棒になって、立ってみねばならぬ。自分の中にある錘(おもり)をふたつに分けてふりわけに荷い、平衡を保つように心がけ、踏みしめて立ってみてはじめて、傾いてぐらりぐらりとしている世の中が、足の下に広がり沈んでつかのま安定する。」

「事件発生以来20年、この時点でさえ、公式認定患者300名を越え、公式死者50名、それまで実質の死者はゆうにその3倍はいた。水俣湾の対岸天草島にさえ、認定患者が見つけ出されはじめ、不知火海沿岸住民には万を越える患者が潜在するのは公然の事態になっているのである。」

「1969年、熊本において「水俣病を告発する会」が発足した。代表になっていただいた高校教師本田啓吉先生がおっしゃった言葉を今に忘れない。
「我々は一切のイデオロギーを抜きにして、ただ、義によって助太刀致します」
一見大時代なこの表現は鮮烈で、「告白する会」が機能していた長い間、会員達の心を鼓舞して止まなかった。
この時、義という言葉は字面の観念ではなく、生きながら殺されかかっている人々に対する捨て身の義士的行為を意味した。それは、当時高度成長を目指して浮わついていた拝金主義国家に対して、真っ向から挑戦した言葉でもあった。」

「「人を憎めば我が身はさらに地獄ぞ。その地獄の底で何十年、この世を恨んできたが、もう何もかも、チッソも許すという気持ちになった。でもなあ、これは我が心と、病苦との戦いじゃ。それでもまず自分が変わらんことには人さまを変えることはできん。戦いというものはそこの所をいうとぞな」と、涙をふきこぼし、ふるえながら言われるのは、杉本栄子さんご夫妻である。
また緒形直人さんはいう。
「チッソの人の心も救われん限り、我々も救われん」
そこまで言うには、のたうち這いずり回る夜が幾万夜あったことか。このような人々を供犠(きょうぎ)として私たちの近代は道義なき世界に突入してしまった。」
 
「この半世紀をかけて書き上げました文章の中には、今われわれの直面している問題の多くが出ていると思います。『苦海浄土』の中の思いを、少しでも汲みとっていただければ幸いでございます。
石牟礼道子 (談 2016年7月21日 於/熊本)」

上記の引用の中に出ている杉本栄子さんの息子さん、杉本肇さんも語り部となり、同時にやうちブラザースというコミックバンド活動を行っています。

その杉本肇さんの活動の一つを、偶然読んだサイトで知りました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?