境界の現象学
境界の現象学 河野哲也 2017年
また、面白い本に出会いました。
境界とそれを超える経験について哲学的に考察する内容です。
今の社会の行き詰った感じを変えることと、人と自然との関係を今とは違ったものにすることには共通点があるように思いました。
その境界の向こうでは、もっと生き生きと生きられるように思います。
猟をする自己と狩猟的志向性
狩猟者は、人びととの関係性を離れ、異種の動物と始原的生活の中で交感する。狩猟者は獲物を模倣し、獲物と命を交換する。狩りとはひとつしかない命をやり取りする行為であるがゆえに、他の人間と交換がきかない生のあり方である。狩猟者は、自然の中の命の循環の中で、自分をひとつの命として鋭く自覚する。対象である獲物も、狩猟者である私もたったひとつの意味しか担わない。それゆえに、意味はないに等しく、私も動物もただ存在しているだけなのである。
境界なき道徳
筆者は以下のように断言したい。道徳性は世界の誰に対しても、どの境域の人々に対しても向けられ、いかなる人も道徳的配慮のもとに置かれるべきだという普遍化された考え方は、同心円主義からは決して生まれてこない。哲学者のアンリ・ベルクソンは同心円主義の問題を随分と前に見抜いていた。彼は、『道徳と宗教の二源泉』のなかで、道徳のあるべき姿として「開かれた道徳」という考え方を提起している。
ベルクソンは、流体の哲学者である。彼によれば、生命は本質的に動的で、創造的な運動をする存在である。この動的性質を押しとどめようとするあらゆる抑圧は生命に反している。道徳性が生命を育み、成長を促すためのものであるならば、道徳とは、開かれ、動的でなければならない。したがって、道徳的な社会とは、そうした実践ができるようにつねに自らを更新できるダイナミズムをもっていなければならない。閉じて、固定的なものは、その性質そのものによって、生命ある存在を傷つける。なぜなら、創造的な運動を否定することは、生命を否定することに等しいからである。
ベルクソンによれば、閉じたものと開いたものは根本的に区別されるべきである。家族愛や郷土愛、祖国愛といった道徳心は、自己愛あるいは自己保存欲求の延長にすぎない。それは閉じた道徳である。閉じた道徳は、一般的なルールを成員に遵守するよう求め、社会のため責務を課す。私たちの社会的責務の根底にある社会的本能は、どんなに広大であるにせよ利己心の延長であり、本質的に閉じた社会を目指している。そして、この本能は人類全体を包括しようとすることはない。むしろ、同質性を求めて人びとを排除していく。
(中略)
他方、ベルクソンによれば、人類愛(ここには動物などの生命に対する愛も含まれる)はまったく異なった原理に基づいている。自己愛の延長に過ぎない祖国愛と、人類愛との差異は、程度の問題ではなく、質的である。家族愛や祖国愛を拡張しても、人類愛に到達することは決してない。人類という集団は、その成員が拡大し続け、変化し続ける開いた社会である。したがって、人類愛とは、全人類を包括するまでに道徳性を拡張していこうという開かれた態度を意味する。生の飛躍は愛の飛躍に高められ、全人類をその愛の対象としながら進化して行く。閉じた道徳と開いた道徳の差異は、固定性と運動性の質的な違いとして、あるいは、求心性と遠心性の質的な違いとして理解すべきである。ここに私たちの用語を付け加えれば、ヘスティア的とヘルメス的との質的違いと言えるだろう。
(中略)
開いた道徳とは、生命の運動を促進しようとする態度であり、人類を「前進」させ「進歩」させるような運動を促す。人類の本質は、運動し、新しい創造を行う可能性にこそある。道徳とはこの力を促すためにある。閉じたものは世界を止めようとする意思の発揮であるのに対して、開いたものは、世界を続けさせ、動き続けることを望む意思の発揮である。開いた道徳は法則性を成員に押しつけるのではなく、個々の事例から学ぼうとする。開いた社会はそれまでとは異質な人びとをメンバーとして迎え入れ、自分たちのこれまでの在り方を変えていこうとする。自分たちの社会の方を、新しい個人のために再編成する。ベルクソンは、コスモポリタニズムとは開いた道徳以外ではあり得ないことを示唆した。
こうして、ベルクソンにとって、家族や国家を対象とした社会道徳と人類道徳の差異は根本的である。たとえどんなに国家が大きくても、愛国心と人類への愛との間には、有限から無限への、閉じたものから開いたものへの全距離が介在している。
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