できるようになるまでに必要な努力の量は「人によって違う」という事実と向き合う
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こんにちは、旅人先生Xです。
今回の記事は、「何かができるようになるまでのこと」について、考えながら書いていきたいと思います。
良かったら、のんびり目を通していってみてください。
目次は、以下の通りです。
何かができるようになるまでに必要な努力の量は、人によって違う
世の中の小学校は、秋の運動会のシーズンが終わりを迎える頃かなと思います。
運動会のシーズンに、子どもたちが表現の種目の練習を頑張っているのをみていて、純粋に「すごいなぁ」という気持ちになっていました。
小さい頃(今も)、私はうまくできないタイプの人だったので、ひょいひょいと新たな動きを会得していく子どもたちを見ていると驚きにも似た気持ちが込み上げてきます。
私は、現在も知識を暗記をしたり、体の動きを覚えたりするのが得意ではありません。
体の動きは、かなり何度も反復して練習しないとモノになりません。
運動会や劇の発表、演奏会などは、周りの人の動きを見て、なんとなくやってやり過ごしてきました。
また、暗記に関しては、かなりの苦手分野で、漢字や地名、人物名や音楽の楽譜など、多岐にわたって、苦手です。
いまだに簡単なものを間違えています。
ただ、全くできないかと言われればそうではなく、できるまでやればできるようにはなります。
何が言いたいかと言いますと、
ということです。
この辺りを自分なりに受け止めて、どう向き合っていくかは、子どもに限らず、大人も大事になってくることなのではないかなと私は考えています。
「違う」という事実とどう向き合うか
昔の私は、拗ねて、逃げていました。
「どうしてみんなと同じくらいやっても、できないんだろう」と思い、毎度毎度、嫌な気持ちが込み上げてくるので、やること自体が嫌でした。
だから、逃げていました。
でも、中学校くらいの時でしょうか。
英語と社会の中間試験だったと思うのですが、あまりにも覚えられなくて腹が立ち、覚えるまで永遠にやり続けるという苦行を当時の自分に課したのです。
できるようになりたいとか、頑張りたいとかそういう前向きな気持ちではなく、ただただ腹が立ち、怒りに任せてやっていた記憶があります。
そうしたら、思っていたよりずっといい結果が出たのです。
つまり、「結構覚えることができた」のです。
それから、少しずつ考えが変化して、「人と同じだけやってもできないなら、自分ができるまでやればいい」というなんとも脳筋な考えになっていきました。
言葉は悪いですが、ただただムカついたからやったら、ラッキーなことに光が見えたのです。
人生、何がきっかけになるかわかりません。
必要な努力の量が違うというのは、悲しいけれど向き合わざるを得ない瞬間のある事実かと思います。
だからこそ、自分なりに向き合う方法を少しずつ見つけたり、試したりしていく価値のあることなのではないかなと感じています。
人と同じようにできないことがあってもいいじゃないか
同じようにできることにこだわらなくてもいいことって実は結構あると思います。
都道府県をついつい忘れてしまっていても、漢字の書き順を間違えることが多くても、ダンスがへたっぴでなかなか覚えられなくても、私はなんとかやっていけています。
他の先生たちが当たり前のようにできるようなことも未だにできないことがたくさんあります。
でも、「人と同じことができなくてもいいじゃないか」と思うのです。
忘れたら聞けばいい。
思い出せないなら、調べればいい。
間違えるなら、指摘してもらえばいい。
別の得意なことで、力を発揮すればいい。
そんな風に考えて、やれることを頑張っていくようにすればいいんじゃないかなと思っています。
何かができるようになるまでに必要な努力の量は人によって違うし、人によってできることは違います。
だからこそ、「できないことがあるのは当たり前」と受け止め、自分なりに向き合っていくことが大切なのではないでしょうか。
今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございます😊
ではまた、次の記事でお会いしましょう。
みなさま、皆様、良い一日をお過ごしください。