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あの頃の香港は、これからもずっと心の中で生き続ける
いまも忘れられない、香港の光景がある。
たとえば夜、九龍の街中を走るネイザンロードに、鮮やかな色彩で煌めいていたいくつものネオン看板。2階建てバスの天井にぶつかりそうなくらいの高さで、けばけばしい色合いの看板がギラギラと輝きを放っていた。
いかがわしい外観の重慶大厦へ入れば、何者かもわからないインド系の人々や安宿のしつこい客引きにいつも誘われた。繁華街にあるのに、一気に香港の奥部へ迷い込んでしまったかのような、怪しげな雰囲気で満ちていた。
そして、廟街のナイトマーケット。どこか懐かしい橙色の裸電球が灯る中、小さな露店が延々と連なり、暇を持て余した人々が賑やかに行き交う。売っている品々は、いったい誰が買うのだろうと思うような物で氾濫していた。
ただ街を歩いているだけで、面白い何かに出会い、胸が高鳴らずにはいられなかった、あの頃の香港……。
それは、15年前、僕が初めて香港を訪れたときに見た光景だった。
その頃はもう、すでにイギリスから中国への返還も行われ、街の上空をかすめて飛行機が着陸する啓徳空港は閉港し、東洋の魔窟と呼ばれた九龍城砦のスラム街は取り壊された後だ。
でも、15年前の香港には、世界中でこの都市にしかないと信じることのできる、不思議な煌めきがまだ残っていた。
いわば、そこは香港という名の、一種のワンダーランドだったのだ。ひとり街を歩きながら、旅人としての感情の昂ぶりを抑えることができなかったのをよく覚えている。
これが香港なんだ……と胸のうちで何度も呟きながら、眩しいネオンとうるさい広東語と早足の雑踏で溢れたカオスの中を、僕は旅していたのだ。
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この冬、久しぶりに香港を訪れた僕は、目の前の風景の向こうに、あの頃の香港の幻を見ていた。
いや、香港がもう変わってしまっていることは、知っていた。5年前に訪れたときも、ネイザンロードのネオン看板はめっきり減り、重慶大厦はただのオフィスビルのような外観になり、廟街はアジアのどこにでもありそうな普通のナイトマーケットになっていたからだ。
ただ、この5年の間にも、香港はさらに変化したようだった。
奥まった路地にかろうじて残っていたネオン看板さえ、ほとんど消滅していた。たまに見かけても、それはLEDを使った新しい看板で、あのギラギラとした派手な輝きは感じられない。
重慶大厦もまた、怪しさは薄くなり、かつてのように歩きながらゾクゾクしてくる感覚もなくなっていた。上層階の安宿や階下のインド料理店は健在とはいえ、アンダーグラウンドのようだった雰囲気は遠いものになった。
そして廟街は、すっきりと洗練されたナイトマーケットに変貌を遂げていた。頭上には色とりどりのランタンがいくつも揺れ、どこか最近のインスタ映えを意識したような美しさになっていた。
なにより、どれだけ香港の街を歩いても、いつまでも胸が高鳴ってこないのが不思議なくらいだった。あの興奮してたまらなかった香港は、いったいどこへ行ってしまったのだろう……。
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もちろん、香港の何もかもがつまらなくなったわけではない。果てしなく繁華街が続いているような街中を歩くのは楽しいし、トラムや2階建てバスに乗って街並みを眺めれば、やはりここが香港なのだ……と実感する。
でも、もっともっと煌めいていたはずの香港を知っているからこそ、無意識のうちに、それを思い浮かべてしまう自分がいるのだ。
あるいは、もしも僕がいま初めて香港へやってきた旅人だったら、目の前の光景をただ純粋に楽しめるものなのかもしれない。
もう、過去の香港を思い出す必要なんてない。ただ、いまの香港を、そのまま楽しめばいいのだ……。そうわかってはいても、どうしても、あの頃の香港を思い浮かべずにはいられない自分がいた。
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そんな旅のある日、かつて空港があった啓徳という街を訪れた。なんでも、この街にあるショッピングモールで、古の九龍城砦を再現した展示が行われているというのだ。どうやら、いま日本でも話題になっている、九龍城砦を舞台にした映画のセットとして使われたものらしい。
行ってみると、決して大きくはないけれど、当時の九龍城砦の光景をそっくり再現した空間がそこにあった。
薄暗く細い路地、頭上に複雑に絡み合った電線、繁体字が書かれた貼り紙や看板、乱雑に置かれた路上の家財道具……。
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さらに奥へ進むと、どこか怪しげな、でも人間臭さに溢れた、茶餐庁や理髪店、麻雀屋があった。茶餐庁の店先には鶏がそのままぶら下がり、理髪店の鏡には俳優らしき人物のプロマイドが貼られている。麻雀屋のテレビには不鮮明な映像が流れ、テーブルの上には麻雀牌とともに呑みかけのビールと捨てられた落花生の殻があった。
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駄菓子屋には毒々しい色をした飴やガムが売っている。錆び付いた看板には、スポーツドリンクの絵。そして驚くことに、ガラスケースに入れた小瓶の中に、ギラリと光る義歯を沈めた店もある。この扉の奥にいるのは、本物の歯科医なのだろうか。
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古びた配水管や数字の刻まれた電気メーターを眺めていると、どこからか飛行機が迫ってくる音が聞こえてきた。近くの啓徳空港へ着陸する飛行機らしい。ぐんぐんと音は大きくなり、まさにすぐ真上に差しかかると、けたたましい轟音を響かせながら、飛行機は勢いよく通過していった……。
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この隠された巣窟のような空間を探索しながら、久しぶりの香港で、僕はようやく胸がドキドキと高鳴ってくるのを感じた。
ここはもちろん、本物の九龍城砦ではなく、ただそれを再現しただけの場所に過ぎない。でも、それが作り物であったとしても、いままで僕の知らなかった香港が、そしてもう永遠に行くことのできない香港が、ここにある気がしたのだ。
周りを見ると、地元の香港人らしきおじさんやおばさんが、どこか懐かしそうな表情を浮かべながら、この作られた九龍城砦を歩いていた。その光景は、なかなか良いものだった。
もしかしたら、彼らもまた、「あの頃の香港」に思いを馳せているのかもしれない。僕が15年前に見た香港を、いまもなお、忘れることができないように……。
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その旅の最後の夜、ヴィクトリア・ハーバーを渡るスターフェリーに乗った。
香港島から、九龍へ。高層ビルに設置されたネオンが水面に映り、赤や青、緑に揺らめく海の上を、船は穏やかに走っていく。それは、値上がりしたとはいえ、4香港ドル……わずか80円で味わえる豪華な航海であることに変わりない。
あるいは、あらゆるものが変化したこの香港で、ほとんど唯一、いまも変わっていないのは、このスターフェリーなのかもしれない。
色鮮やかに輝くヴィクトリア・ハーバーの海面も、頬を優しく撫でてゆく涼しげな風も、船内に漂う機械油の鼻をつく匂いも、ゆらりと揺れる船に身を任せる心地良さも、15年前と何も変わっていない……。
そのとき、これでいいのかもしれないな、と僕は思った。
変わっていく香港もあれば、変わることのない香港もある。たぶん、それが当たり前のことなのだ。
そして、ふと気づいた。旅人として本当に大切なのは、いまも心の中にある、あの頃の香港を忘れないことだったのだ、と。
いまも忘れないからこそ、変わってしまったネイザンロードの風景を見て心から嘆くこともできるし、こうしてスターフェリーに乗ってまだ変わらない風景があることに心から喜ぶこともできるのだ。
確かに、あの頃の香港は、いまはもうないのかもしれない。
でも、忘れることがないかぎり、あの頃の香港は、これからもずっと心の中で生き続ける。ネイザンロードのネオン看板は煌めき、重慶大厦は怪しさで溢れ、裸電球の灯る廟街は人々で賑わう。もう2度と行くことはできないけれど、永遠に変わることのない、あの頃の香港のまま……。
その夜、スターフェリーに乗りながら、色とりどりに揺らめく夜景をひとり見つめていた。
すると、目の前に広がる香港の風景と、いまも忘れることのできない香港の風景が、静かに、でも確かに、初めてシンクロして見えたような気がした。
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(ちなみに、九龍城砦の再現展示は、啓徳のショッピングモール「AIRSIDE」にて、2025年4月13日まで開催されている。おすすめです!)
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![手塚 大貴](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/5868495/profile_c3e0cd35ff2040d3f23cf1974361e992.jpg?width=600&crop=1:1,smart)