旅エッセイ集を作る過程で生まれた、3つの大事な選択
この秋は、人生で初めて、旅のエッセイ集を作る日々だった。
それは、10月のnoteでもお伝えしたとおり、紙が好き……という思いから作ることになった、僕にとって最初の「紙の本」になる。
そして、ようやく先日、すべての原稿が完成した。
水を濾過していくように、何度も推敲を重ねた文章は、自分で言うのもおかしいけれど、なかなか良いものに仕上がっている自信がある。
なにより、一冊の本を作り上げる作業は、ときに孤独で、ときに大変で、だけど、それ以上に心楽しいものだった。
仕事でもなく、誰に依頼されたわけでもない旅の本を、自由に、でも読んでくれる誰かの心に届くように、作り上げていく。
その日々がこんなにも、ワクワクするような楽しさに溢れているとは思わなかった。
ただ、必ずしも、すべてが順調に進んだわけではない。
一冊の旅エッセイ集を作る過程で、3つの迷いが生まれ、それぞれに大事な選択をすることになったのだ。
迷った1つ目は、このエッセイ集を、海外の旅の話をまとめた一冊にするのか、国内の旅の話も含めた一冊にするのか、ということだった。
最近の僕は、国内よりも海外へ旅に出ることが多いこともあり、このnoteでも、海外の旅を描いたエッセイが増えている。
実際、旅を描く一人として、国内ではなく、海外の旅の話を求められることが多い気もする。
ただ、振り返ってみると、僕にとって大切な旅は、海外だけではなく、国内にもたくさんあることに気づいた。
そのとき思い浮かんだのが、海外の旅の話と国内の旅の話を、互いに織り交ぜながら一冊のエッセイ集を作ることはできないだろうか、という案だった。
海外の旅、国内の旅、海外の旅、国内の旅……と連ねることで、海外のみならず、国内も含めた、旅の素晴らしさを描けそうな気がした。
そうして、海外の旅と国内の旅、それぞれの話を交互に並べたエッセイ集にする、という方向性が決まったのだ。
迷った2つ目は、どのくらいの分量のエッセイ集を作るか、ということだった。
あまりに薄い一冊だと物足りなく思うかもしれないし、逆に重厚感のある本にしても手を取ってもらいにくくなるかもしれない。
最初は、noteで好評だったエッセイを改稿した5編に、書き下ろしの1編を加えて、計6編のエッセイ集を作るつもりだった。
ただ、僕の本を楽しみにしてくれている人の声を聞くうちに、それではちょっと期待外れになってしまうような気がした。
そこで、さらにnoteから4編と、書き下ろしでもう1編を加え、計11編のエッセイ集を作ることにした。
ところが、11月にトルコの旅から帰ってくると、その旅の話も新たに本に収録したくなってきた。
そして最終的には、トルコの旅の話を含め、書き下ろしで2編を加えることになり、計13編の作品を収録するエッセイ集を作ることになったのだ。
迷った3つ目は、写真をどのくらい掲載するか、ということだった。
このnoteでは、文章の合間に写真を入れながら話を進めていくのが僕の基本スタイルだし、何人かの読者の方からも、「写真をたくさん載せた本にしてほしい」という声を頂いた。
ただ、このエッセイ集だけは、写真に頼るのではなく、できるかぎり文章だけで旅の世界を描いてみたい、と僕は思った。
確かに、写真を何枚も載せた方が、旅の情景を直接的に伝えることはできるかもしれない。
でも、文章から自由に想像力を膨らませることができるのも、「紙の本」ならではの良さのような気がするのだ。
それは、沢木耕太郎さんや村上春樹さん、角田光代さんといった、僕が好きな作家は、いずれも写真に頼ることなく、文章で旅を描いているためでもあった。
とはいえ、まったく写真を載せないのも寂しいので、各エッセイにつき写真を1枚だけ載せる、という方針が決まった。
すべての原稿が完成したいま、その3つの選択は、間違っていなかったような気がしている。
海外の旅の話と国内の旅の話を連ねることで、どちらに偏ることもない、多彩な旅の世界を表現できた。
合計13編というエッセイの数も、多すぎることも少なすぎることもなく、楽しみながら読める分量になった。
掲載する写真を1枚にしたことで、その写真を入り口に、文章で描く旅の世界へと入っていける雰囲気も生まれた。
たぶん、一冊の旅のエッセイ集として、なかなか良い本が出来上がりそうな期待がある。
いまは、デザイナーさんとのやり取りも進み、もうすぐ印刷段階へ入ろうとしているところだ。
本が僕の手元に届く頃には、年末も近くなっているので、販売のタイミングについてはちょっと迷っている。
なんとか年内に販売しようか、落ち着いた年明けから販売しようか……。
もしかしたら、それが新たに生まれた4つ目の迷いなのかもしれない。
でも、いままでの3つの迷いに比べれば、それはどちらを選んでもいいような気もする。
良い一冊を作り上げることができたなら、きっとその誰かの元へと届けることは、できるような予感がするからだ。