次の旅では、カメラを片手に。沢木耕太郎『心の窓』を読んで
この春、カザフスタンのアルマトイで、路線バスに乗っていたときだった。
混雑した車内で、僕が後ろのドアに面した通路に立っていると、途中の停留所から、4人の少年少女たちが乗ってきた。
僕のすぐ近くに立つことになった彼らは、小学生らしい男の子3人と、中学生らしい女の子1人、という姉弟だった。
男の子たちは遊びたい盛りらしく、揺れるバスの中でも、お互いにちょっかいを出し合ったり何かふざけた言葉を言い合ったりしている。
女の子は興味がなさそうに彼らのことを放っていたが、他の乗客に迷惑がかかるくらいに暴れ始めると、パシッと手のひらで彼らの背中を叩き、いい加減にしなさい……という目でじっと見つめていた。
すると、あれだけ大騒ぎしていた男の子たちも、しゅんっと静かになって、車内にしばしの平穏が戻るのだった。
その女の子の、ちょっと厳しいけれど、でも優しい、お姉ちゃんらしい佇まいが、なんとも魅力的だった。
もしかすると、お父さんとお母さんは仕事に出ていて、今日はお姉ちゃんが3人の弟たちの面倒を見ることになったのかもしれない。
本当は友達と遊びに行きたかったけれど、弟たちを置いていくわけにもいかず、仕方なく3人を遊びに連れて行ってあげることにした……。
なんとなく、彼らを見つめる女の子の眼差しからは、そんな気配がうかがえた。
やがて、市街地の停留所に着くと、ジャンプするようにして弟たちが降り、そのあとについてお姉ちゃんが降りていった。
その後ろ姿からは、手の焼ける弟たちだけど、私が守ってあげないと……という、確かな愛情のようなものが滲み出ているように思えて、僕はバスの窓越しに、4人から目を離すことができなかった。
……先ごろ発売された、沢木耕太郎さんのフォトエッセイ『心の窓』を読んで思い出したのは、そんな旅のワンシーンだった。
そして、感嘆しながら思ったのだ。
きっと沢木さんなら、あんな旅のワンシーンでも、そっとカメラを向けて、短くも上質なエッセイを書き上げるのだろうな、と。
沢木耕太郎さんの新刊『心の窓』は、11年前に発売された『旅の窓』に続く、旅のフォトエッセイの第2作だ。
本を開くと、左ページに旅先で撮った1枚の写真、右ページにそのシーンを描いた短いエッセイが載る構成になっている。
フランス、カンボジア、フィンランド、ハワイ……、旅先は様々だが、そこに描かれた81篇は、ほんの何気ない旅のワンシーンばかりだ。
パリの鉄道駅で公衆電話の受話器に手を伸ばす幼い兄妹、アンコールワットの奥で肩を寄せ合う若いカップル、ヘルシンキの海沿いの坂道を無言で登る初老の夫婦、ノース・ショアーの浜辺で昼下がりの海を見つめるひとりの男……。
しかし、そんな旅の小さなワンシーンに、沢木さんはふっと足を止め、そっと写真を撮り、何かを思うことになるのだ。
そこには、『深夜特急』で描かれた旅とは違う、熟した本物の旅人だけが感じることのできる、旅の一瞬の輝きがある。
たとえば、夕暮れのメコン川に漂う小舟を写した写真が載った、「日常の神々しさ」という一篇がある。
沢木さんは、メコンの流れに浮かぶ、デット島という小さな島を訪れ、そのメコン川に面した安宿に泊まる。
そして、ある日の夕方、西日を浴びながら、親子を乗せた小舟が漁をしているのを見たとき、こんなことを思うのだ。
この本で描かれている旅の一瞬は、出会うことになった人たちの、人生の一瞬でもある。
異国の旅が好きな人なら、似たようなワンシーンに遭遇した経験が、きっと何度もあるはずだ。
でも、同時にこんなことも思う。
はたして自分は、こうした旅のワンシーンに出会ったとき、沢木さんのように、ちゃんと足を止めてきただろうか、と。
そのまま通り過ぎることなく、足を止め、写真を撮り、そこで何かを思うことができただろうか、と。
沢木耕太郎という旅人は、どんな何気ない旅のワンシーンにも、自然と心を動かせるだけの力を持っているのかもしれない。
ただ、この本が教えてくれるのは、すべての旅人が、その力を秘めている……という可能性のような気がするのだ。
台湾のお寺で祈りを捧げる人々、ラオスの食堂で鍋をつつく若い男女、ドイツの街角で歌声を響かせる男性……。
きっと、どんなにささやかな旅のワンシーンにだって、誰もが心を動かせるはずなのだ。
そう、旅の一瞬の輝きを感じさせてくれる、「心の窓」を開くことさえできれば。
この『心の窓』は、旅を愛するすべての人に、そんな励ましを与えてくれる一冊だった。
沢木さんは「あとがき」に、こんなことを書いている。
次の旅では、スマホもいいけれど、カメラを片手に異国の街を歩いてみようか……。
自分だけの小さな物語を編むように、「心の窓」を開けながら。