パリの人の温かさに触れられた、小さなホテルの話
パリに着いた最初の日、ホテルにチェックインした後、夜の凱旋門を見に行った。
ところが、シャルル・ド・ゴール広場に立ち、ライトアップされた凱旋門を写真に撮っていると、不意に雨が降ってきた。
夜の空には、雷鳴とともに紫の稲光が煌めき、雨脚はどんどん強まっていく。
折り畳み傘を部屋に置いてきてしまった僕は、仕方なく街歩きは諦め、近くの駅からメトロに乗って、ホテルへ帰ることにした。
メトロ6号線をパッシー駅で降りると、地上にあるホームは水浸しで、まるで日本のゲリラ豪雨のように、外は土砂降りになっている。
しばらく駅の屋根の下で雨宿りしていたけれど、本降りの雨は止みそうにない。
時刻が23時を過ぎた頃、僕は決意を固めて、雨降る街へ飛び出していった。
駅から歩いて5分ほどのホテルとはいえ、小走りで向かっても、ホテルのある路地へ曲がる頃にはびしょ濡れになっていた。
そのとき、思いがけない光景を目にした。
ホテルの玄関の庇の下で、オーナーらしき初老の男性が、誰かのことを待っていたのだ。
そして、僕と目が合うと、ふふっと彼は優しく笑った。
彼は玄関のドアを開け、雨に濡れた僕を招き入れると、言った。
「心配したよ。この雨の中、全然帰ってこなかったから」
まさか、と思った。
たかだか雨に降られただけで、その帰りを玄関の外にまで出て待っていてくれるホテルなんて、あるのだろうか。
「ここに傘があるから、雨が降りそうなときは持っていくといい」
彼はそう言いながら、部屋の鍵を手渡してくれた。
それを受け取ると、僕は言った。
「……どうもありがとう。おやすみなさい」
そして、手動でドアを開けるエレベーターに乗って、部屋へ向かいながら、思ったのだ。
これはもしかしたら、思いがけず、なかなか良いホテルに泊まることになったのかもしれないな、と。
それは、16区のパッシーという地区にある、「ガヴァルニ」という名のホテルだった。
このホテルを選んだ理由は単純で、オリンピック期間中にもかかわらず、値段が比較的お手頃だったからだ。
だから、まあ寝られればいいか、くらいの気持ちで、ホテルそのものにはほとんど期待していなかった。
でも、この路地裏にある小さなホテルは、良い意味で予想を裏切ってくれる、素晴らしいホテルだったのだ。
まず、その立地が抜群だった。
メトロの駅から近いのはもちろん、周辺は落ち着いた高級住宅街で、治安もそれほど悪くない。
「ガヴァルニ」というホテルの名は、目の前のガヴァルニ通りという路地から付けられたらしい。
付近には歴史あるアール・ヌーヴォー建築の街並みが広がり、パリの中心部とは異なる、重厚な雰囲気が漂っていた。
ホテルの玄関を入ると、小ぢんまりしたフロントがあり、手動の古いエレベーターに乗って、部屋へ向かう。
僕が泊まったのはシングルルームで、ひとりでは十分なシングルベッドに、机と椅子、テレビ、そしてシャワーとトイレも付いている。
決して広い部屋ではないけれど、最低限の設備は揃い、なにより清潔感があるのが良かった。
カーテンを開けると、窓の向こうには、隣に建つ古いアパルトマンと、その上にパリの空が見えた。
そこはまるで、誰にも干渉されることのない、パリの秘密の隠れ家のようなものだったかもしれない。
毎朝、そのホテルの部屋で目を覚ますたび、いまパリにいることの確かな幸せに、ひとり包まれるのだった。
今回のパリは、オリンピックの観戦のために出た旅だった。
連日のように競技会場を飛び回っていたので、ホテルの部屋でゆっくり過ごす時間はあまりなかった。
でも、その旅が素晴らしいものになってくれたのは、このホテルの安心感があったおかげだったと思っている。
何日か経つうちに、まるで自宅にいるような愛着を、この小さなホテルに抱くようになっていた。
それは、ホテルのあるパッシーという地区が、魅力的な街だったせいもあるかもしれない。
朝、ホテルを出ると、いつも近くのベーカリーへと向かう。
何日目だったか、地元の人たちで賑わうベーカリーを見つけてから、そこが僕にとっても行きつけの店になったのだ。
顔なじみになった女性の店員さんに挨拶し、クロワッサンやパン・オ・ショコラを買う。
ここの焼きたてのパンは、1日の始まりにふさわしい、思わず笑みがこぼれてしまう美味しさなのだ。
そのままメトロの駅へ行くこともあるけれど、パンを片手にセーヌ川まで歩き、ビル・アケム橋の上でエッフェル塔を眺めながら、のんびりとパンを頬張ることもある。
幸せに包まれるのは、朝だけではない。
夜遅く、観戦に疲れて帰ってくると、ホテルの近くの街角に、深夜まで開いているバーがある。
暑さが残る夜、この店に立ち寄って呑む一杯のビールは、なによりも旅の癒しになってくれた。
バーの窓からは、エッフェル塔のてっぺんの部分が見える。
ときに、シャンパンフラッシュと呼ぶらしい、塔全体がきらきらと輝く光景に出会えると、手にしたビールまで特別な一杯のように感じるのだった。
ただ、このホテルが素晴らしかったのは、なんといっても、スタッフの人たちの優しさ、そして温かさだった。
ものすごく親切というわけではないし、気が利くというわけでもない。
だけど、チェーン系のホテルにはないような、小さなホテルならではのフレンドリーな雰囲気が漂っているのが良かった。
夕方、少し早い時間にホテルへ戻ると、フロントには若い男性のスタッフがいることが多かった。
彼はユーモアがあって、ある日、部屋の鍵を受け取るとき、僕が部屋番号を間違えて伝えると、おどけてこう言った。
「正解は***だ。明日は間違えちゃいけないよ」
そして次の日、今度は正しい部屋番号を告げると、こう言いながら鍵を渡してくれた。
「素晴らしい。正解だ」
夜遅い時間に帰ると、最初の日に雨の中で待っていてくれた、オーナーらしき初老の男性がよくフロントにいた。
彼も人懐っこい性格らしく、短い会話を楽しむことがあった。
「今日は何を観戦してきたんだい?」
「卓球を観てきたんだ」
「それで、日本は勝てたのかい?」
「もちろん!」
すると、彼はまるで自分のことのように、心から嬉しそうに笑ってくれた。
たまに、会話が長くなると、こんなことも言っていたけれど。
「いけない。私はまた喋りすぎてしまったみたいだ」
旅に出る前、僕はパリの人たちに対して、無愛想で冷たいイメージを抱いていた。
でも、必ずしも、そうではないらしい。
少なくとも、このホテルのスタッフたちは、いつも笑顔で迎えてくれる、楽しくて温かい人たちだったからだ。
旅の最後の朝、ホテルをチェックアウトするとき、フロントでバックパックを預かってもらった。
日本へ帰る飛行機は、夜の出発だったのだ。
その日、男子マラソンを観戦して、さらに男子バレーボールの決勝戦も見届けて、百貨店のギャラリー・ラファイエットでお土産を買い終える頃には、夕方になっていた。
すっかり慣れ親しんだメトロ6号線をパッシー駅で降り、ホテルのあるガヴァルニ通りへ曲がったとき、あっ、と思わず声を出しそうになった。
ホテルの玄関の前に、いつもの初老の男性が立っていたからだ。
あの最初の夜、土砂降りの雨の中で、僕を待ってくれていたのと同じように……。
僕の姿を目にした彼は、優しい笑みを浮かべると、あの夜のようにドアを開けてくれた。
バックパックを受け取るとき、僕は伝えた。
「また次にパリへ来るときも、このホテルに泊まりたい」
それを聞いた彼は、嬉しくてたまらないといった表情になって言った。
「ありがとう。また会える日を待っているよ」
そして、こう言ってくれた。
「よかったら、最後にコーヒーでも飲んでいくかい?」
ちょっと心が動いたけれど、もう時間の余裕がなかった。
「残念だけど、飛行機の時間があるから」
ホテルを出ると、当たり前のように、彼も見送りに出てくれた。
手を振って別れ、パッシー駅へと続く大通りに出ると、夕暮れのパリの空は、あの夜の大雨が嘘みたいに、美しく晴れ上がっていた。
それはまるで、いまの気持ちをそのまま映したかのような、澄み切った青空だった。
旅の終わりのはずなのに、不思議と寂しくないのはどうしてだろう……?
もしかすると、彼方に見ていたのかもしれない。
いつかまた、パリを訪れて、このパッシーの街を歩いている、自分の後ろ姿を。
そして、あの路地へ曲がって、「ガヴァルニ」というホテルへ入っていく、新たな旅の始まりを……。
(この記事は、パリの旅を楽しいものにしてくれた、ホテルへの恩返しの気持ちで書いてみました。もしも、これからパリへ行く誰かが、このホテルに泊まってみたい……と思ってくれたら、すごく嬉しいです)