イギリスへ旅に出たら、その朝食に「幸せ」があった
イギリスへ旅に出ても、その「食」については、ほとんど期待していなかった。
あの村上春樹も、かつてこんなことを書いている。
ロンドンだけでなく、イギリスの料理は美味しくない、という話はよく聞いていた。
それをすべて信じていたわけではないけれど、これだけ多くの人が口を揃えるのだから、ある種の事実なのだろう。
あるいは、僕が今までイギリスへ行くことがなかったのも、そんな料理に対する負のイメージがあったからかもしれない。
でも、ふとウェールズへ行きたくなり、だからイギリスへ旅に出た。
そして、そのイギリスの地で、僕は思いがけないものに心を奪われることになる。
ロンドンの街並みでもなく、ウェールズの古城でもなかった。いや、どちらにも魅せられたけれど、もっと魅せられるものがあったのだ。
なんと、それはイギリスの「食」だった。
それも、イングリッシュ・ブレックファスト、イギリスの朝食に心を奪われたのだ。
最初の朝食(ロンドン)
イギリスで最初に朝食を食べたのは、ロンドンで泊まったホテルだった。
大英博物館に近く、立地は抜群に良いとはいえ、半地下にある部屋はあまりに狭く、ちょっとがっかりしながら目が覚めた。
そのまた地下にあるダイニングに下りていくと、紅茶とシリアルが出され、さらに、すべての料理が一皿に盛られた朝食が運ばれてきた。
本当に目が覚めたのは、その朝食、イングリッシュ・ブレックファストを口に運んだときだったかもしれない。
ふんわりと柔らかい目玉焼き、歯ごたえのある焼き心地のベーコン、甘さが溶けていくベイクドビーンズ、じゅわっと果汁が溢れ出る焼きトマト、程良いほくほく感が優しいハッシュドポテト……。
決して豪勢な朝食ではないし、格別珍しい料理があるわけでもない。
それなのに、味わっているだけで心が温まっていくような、この美味しさはなんなのだろう。
たぶん、イギリスの朝食の美味しさに僕が目覚めたのは、そのロンドンの朝だったのだ。
2回目の朝食(コヴェントリー)
イギリスで2回目の朝食は、イングランド中部のコヴェントリーという街で食べた。
ホテルは朝食なしだった。付けることもできたけれど、日本円で2000円以上もするので、節約のために付けなかったのだ。
でも、あの朝食の美味しさを知ってしまうと、どうにも食べたくて仕方がない。
そこで、朝から開いているカフェを探すことにした。
Googleマップで検索すると、意外とたくさん出てくる。向かったのは、街の中心の広場に面した、小さなカフェだった。
もちろん注文するのは、イングリッシュ・ブレックファストだ。値段は1400円ほどと、ホテルに比べるとだいぶ安い。
やがて運ばれてきたのは、大きなお皿にすべての料理が盛られた、まさに「フル・ブレックファスト」だった。
目玉焼きが2つに、ベーコンとハッシュドポテト、ベイクドビーンズ、この日はソーセージに、マッシュルームまである。もちろん、トーストも。
どこまでも素朴で、限りなくシンプル。だけどそれは、お腹がいっぱいになるだけでなく、心まで充足感で満たしてくれる、魅惑の一皿だった。
3回目の朝食(カーディフ)
次に向かったのは、ウェールズの首都・カーディフだった。
ここでもホテルは朝食なしだった。ところが、レセプションにいる笑顔の可愛らしい中年女性が、盛んに朝食を勧めてくる。
それならと、朝食を付けてもらうことにした。
翌朝、ダイニングのテーブルに着くと、イングリッシュ・ブレックファスト……ではなく、ここはウェールズだから、ウェルシュ・ブレックファストが運ばれてきた。
といっても、すでに親しみを感じられるようになってきた、今までの朝食とほとんど変わらない一皿だった。唯一、ブラックプディングが盛られているのが、初めての点だったかもしれない。
その朝食を食べながら、ふと、これは何かと似ているな、と思った。
そして、気づいた。日本の民宿やビジネスホテルで出る朝食に似ているんだ、と。
白いご飯に、焼き海苔、焼き鮭、玉子焼き、お味噌汁……。
代わり映えはしないけれど、いや、代わり映えがしないからこそ、それを味わうだけで、気持ちがホッと和らいでいく。そんな飽きない美味しさが、どちらの朝食にもあるような気がした。
4回目の朝食(バンガー)
もしも世界に「完璧な朝食」というものがあるとしたら、このバンガーで食べたウェルシュ・ブレックファストこそ、それに近いものだったかもしれない。
バンガーは、ウェールズ北西部の小さな港町だ。田舎の風情が香るその町で、僕は大学に付属するホテルに泊まっていた。
嬉しかったのは、朝食がバイキング形式で、自由に料理を盛り付けられることだった。
この朝、僕は人生で初めて、イギリスの朝食を自分で盛り付けたのだ。
ソーセージにベーコン、焼きトマト、スクランブルエッグ、ハッシュドポテト、マッシュルーム、そしてベイクドビーンズ……。
気づいたら、ちょっと恥ずかしいくらい山盛りになっていた。でも、意外と上手に盛り付けられた気もする。
そうして味わったウェルシュ・ブレックファストは、思わず笑みがこぼれてしまうほど美味しい一皿に仕上がっていた。
窓の外には、緑の木々が美しいバンガーの風景が広がっていて、ウェールズの1日が始まろうとしていた。
ふと、この朝食を食べるために、僕はウェールズまで旅に出たのかもしれないな、と思った。
旅のすべては、この一皿のためにあった。そう信じられるくらい、それは心惹かれる一皿だったのだ。
最後の朝食(マンチェスター)
イギリスを巡る旅にも、終わりのときがやってきた。
最後の朝食を食べたのは、帰国する日の朝、マンチェスターのカフェだった。
いつものように……と表現したくなる気分でイングリッシュ・ブレックファストを注文すると、しばらくして、あの美しい一皿が運ばれてきた。
目玉焼きが2つ、ソーセージが2本、ベーコンも2枚、そしてベイクドビーンズが別皿に盛られているのは思いがけない喜びだった。
僕はその一皿を、別れを惜しむように、大切に味わった。
すぐ窓の外には、黄色い車体のトラムが行き交い、その走行音が店内にまで聞こえてくる……。
そこには、素敵な1日が始まる予感に満ちた、幸せな朝があった。
それは旅の終わりだったけれど、いつもの美味しいイギリスの朝食が、その寂しさを、温かい幸せへと、変えてくれたような気がしたのだ。
イギリスの朝食には、「幸せ」があった
イギリスから帰ってきた今、恋しさとともに思い出すのは、あの美味しい朝食だ。
派手さはないし、特別さもない。でも、あの素朴な一皿には、人の気持ちを温かく満たしてくれる、ささやかな「幸せ」があったように思う。
旅が終わり、僕にはひとつの夢が生まれた。
いつかイギリスを再訪して、あの美味しい朝食から、また新たな旅を始めたい、と。
きっと、たった5回の朝食で、僕は心を奪われてしまったのだ。
幸福感に溢れたイギリスの朝に、そして、イギリスという国に。