6人の母なだけ。で、保育園のひとになったあかつきには
なんだかんだで、保育園のひとにもなっちゃって。
香りの仕事は、ライフワークで。
もうずっと、ずっと、20年そればかりできたわけで。
施し、教えて。創って、ミテ。
あるいは、子供6人育てるお母さん業も同じく並行しつつ。
忍耐以外のナニモノでもない、ワンオペ子育て。途中シングルでもあり。終わったかと思えば、また今2歳児の夜泣き。何年?10数年。3時間以上は続けて寝ていない。なんなら、不眠。
この20年、割とその2本の軸で過ごしてきました。いや、確実に、このために。
このnoteでもツラツラ綴っている通り、私自身相当なhspな類。
いっつもヒリヒリ、ヒトと人との間で愛という偽善めいた言葉・又の名を摩擦という刺激に摩耗されるなら、滅した方がラク。
そう言う意味で、刹那的とも言える人生を歩んできました。
私自身、子供は好きでもありません。
ただ。
縁あって6人の子の母となり、血縁のある或いは無条件で甘えられる協力者皆無の中、奇跡の子育てを。
好きではないのです、コドモ。
ただ。
気になる。
ちなみになんですが、子供と老人(高齢者では無く、あえて老人)、知的なハンデのある方、精神科領域と親和性のある方、そしてめっちゃ変わった感性をお持ちの方、、、毎日偶然そこで居合わせた初見の方から、突如話しかけられること数十年。
若い頃から、なぜかソコにすごい求心力を持つ私。
同じように、問題が寄ってくる来る。
この度、保育園運営と経営を引き継いでしまいました。
ウッカリ、です。
保育士になりたい!とか、先生なりたい!とか。そんな夢は一度も持ったことも無いのに。
思い返してみれば、自分の努力が狙った成果に直結したことなど、無いのです。
全部、びっくりするところから目が出る人生。時に、知らぬうちに実がついて。なんなら ダレカに食べられてる!
今も正直、そんな時を相変わらず過ごしています。
そのうちのひとつが、この保育園。
関わってみて、改めて保育士の偉大さに気付かされました。
誤解を恐れずに言うなら、全く自分の意思ではどうにもならない領域・コントロールの効かない最骨頂であるコドモという存在の命を守り、輝かせるという。
私、無駄に子育て期間も人数も多めですが、全く苦手ではあります。コドモ。子育て。
人間関係が基礎な世界で、さらにエネルギーと生命力の塊である子供って、すんごい疲れます。
HSPな人にとって、他者のエネルギーがでかいと、ものすごく消耗します。
でね、すごいのは、イヤ〜すごいなあ!っていう先生は、大概繊細です。たぶん結構なhsp だと思う。
私も本業で大いにHSPを利用していますが、ニンゲンを支える仕事で輝くのって、HSP種族なんだと思います。それくらい、ヒトと人、機微って、ものすごく響いてきます。
ケア労働って、社会的立ち位置で見ると、残念なことですが、非常に低いところにあります。
なんなら、家庭においては、ただ働きの労働力という概念や、やって当たり前のような価値観のもと、行われていることが未だにあるわけです。
ただ、家事やベビーシッターの代行業者によって、金銭的な部分での価値が生まれたのは喜ばしいことではありますが、まだまだです。
その理屈で言うと、感覚的に、ケア産業に従事されている方の社会的立ち位置はどうなのか。
給与面もだいぶ改善はあるにせよ、育児で追い込まれた経験者である私から言わせてもらうと、それを養育者に取って代わり関わってくださる方に対して見合った評価は金銭評価だけで無く、全てにおいて非常に劣悪と感じざるを得ないと、今、保育の現場を肌で感じながら思うところです。
でもそれじゃダメなんです。
関わる人が、底辺にいたら、全部が壊れてしまうのです。
私、子供が特段好きなわけでも無いし、教育に関しても全く。社会福祉の観点からは非常に興味深いですが、保育に別段強い思いなど無いわけです。
ただ。
長い目で見た時。ヒトが人として生きるという目で見ると。
一番大切基礎であり、生きる力を育む時期ではあるのです。
私の本業でも常に感じますし、自分の人生を振り返ってもそう。
私。生きる意欲の薄い人間でした。そして、今もそう言う意味での根がないので、すぐに枯渇してしまいます。
これは、後から自分で創っていける類のものではないのですよ。
そういう大切なことが詰まった、幼児・育児期。
ここは本当にシンドイ時です、養育者にとって。
だからこそ、どんな養育者にも添いたいし、どんな子にも倒れないようにコッチ側から。
私がして欲しかったこと。たくさんあって、どこにもそれがなかったりする。
だから、此処にいるのかなあ。
と。
保育園から、世界中の子供や親に、想いを馳せています。