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人生初めての出張、目の前に見えたものは。


【1】はじめに


 私はなぜ、今にも涙が溢れそうなのか分からない。達成感なのか、疲労困憊だからなのか、はたまた焦りなのかーー。
 私は、人生で初めて出張に出かけ、そしてたった今、自宅に帰ってきた。3日ぶりの家は、ホッとする。何もかもを脱ぎ捨て、今すぐベッドに倒れ込みたいくらいだ。ただ、疲弊したわたしの体の中に、静かに熱く燃えるものが奥底にあるのだ。まるで、静かな森の中で人静かに燃える焚き火のように、パチパチと音を立て燃え上がっている。私がこのまま眠りについて目が覚めたとき、この炎が消えぬようまとめたい。


【2】出張前


 初めての出張は、前任から私へ担当が代わる挨拶が目的だ。出張の前には、前任である上司から引き継ぎが行われた。各店舗の情報が入ったファイルと共に、これまでの歴史がA4用紙4枚にまとめられたものが渡された。文書は、たった4枚に聞こえるかもしれないが、私にとっては非常に重たい文書だった。実に10年、上司がどのように各店舗と向き合ってきたのかが、懇切丁寧にまとめられていた。何度も読み返しては、目の前の飄々と振る舞う上司が、いかに苦労してきたのかを考えてしまう。上司はどちらかといえば、何事も卒なくこなすので、苦労など知らない人だと私は思っていた。ただそれは誤りで、文書の中の上司は、各店舗の方々と何度も膝を突き合わせ、ときに口論もしながら、奮闘していたのだ。私は、もう一度文書に目を落とし、まだ見ぬ登場人物に思いを馳せながら、出張の日まで指を折って数えた。


【3】出張当日


 出張当日は、雨だった。真っ黒な雲の中を通るので、フライトは揺れた。まるで自分自身の心を投影しているのかと思うほどだった。手に汗握りながら、なんとか到着した。飛行機はコロナの影響で減便をしていた。だから、予定はかなりタイトに組まれており、休むまもなくレンタカー屋さんへ向かった。手続きが済むと上司が運転する車に乗り、最初の店舗を目指す。空港からは車を走らせ、1時間ほどであろうか。ついに対面する時が来た。車の中でだいぶ落ち着きを取り戻していたが、扉を目の前にすると一段と鼓動が早くなった。逸る気持ちを抑え、一息ついて扉を開けると、「ようきたっちゃ!」と明るく店長さんが声をかけてくださった。店長は外回りの影響だろうか、肌は小麦色だった。彫りは深いものの、優しそうな笑顔で、一気に緊張が解けた。「座って座って!」と私たちを席に案内し、歓迎してくれた。それから時がすぎるのは一瞬であった。コロナの影響もあって、上司も1年近く直接顔を合わせていなかったので、これまでどんなことがあったのかを互いの近況を話したり、私の自己紹介をしたり、気づけば長針は一周していた。同じ調子で、2店舗目、3店舗目と巡回を重ねて、2日間かけて全部で6店舗まわった。どのお店も温かく、足を運ぶほど私は強い確信を持っていった。
 たしかに最初は相当緊張をしていた。それは、上司の働きは相当すごいもので、自分もまた同じように接することができるのか、と思ったからだ。また同時に、長年一緒にやってきたパートナーを失い、相手方の心が離れてしまうのではないか、とも思ったからだ。ただ、その不安はよそに、今の私はやる気に満ち溢れている。僅かな時間ではあったが、各店舗の方々がどんな思いで仕事をしているのか、どうやって今までの壁を乗り越えてきたのか、文書で書かれなかった裏側も見えてきた。そしてそこから、私たちへの期待、さらには信頼が感じられたからだ。私が考えていた不安はちっぽけなもので、そう決して簡単に切れることがない、強固なつながりがあったのだ。


【4】おわりに


 今、私の手には、襷が見えた。ちゃんと、私の襷だ。そして、この襷を受け取ったからには、私はゴールに向けて走り続けると誓いを立てた。どんなことがあっても棄権をせず走った上司がいる。苦しくても伴走してくれた販売店がいる。この襷は決して離してはいけない。この闘志を絶やさぬように、私は明日から走り始める。

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