2024年 共通テスト 世界史B 分析(前編)
Tabasaです。
共通テスト世界史Bの分析。
仕事用で書いていたメモを一部、改変しただけのものになります。
来年度以降の世史選択者は、歴史総合+世界史探求の組み合わせでの受験が多くなると思います。
(※一部の国立大では、地・歴・公民の3分野の探求科目から2つ選ぶ必要があるため、注意)
一度で全部の問題の分析を書くと平気で10000字とかいきそうなので、前編は大問2まで。
【総評】
問題数33、ページ数31。
共通テスト移行時から、資料読解の問題が増え続けている(中学生の国語レベルの問題もあったり)。
各地域、時代の配分も偏りが少ない。
大学ごとに問題傾向に特色のある私立の一般入試とは異なり、教科書範囲を網羅できていないと対策が難しい。
近年の傾向として、第二次世界大戦後の冷戦、特に東側陣営(共産圏)に関する問題の出題率が高い。
社会科系の科目は時事問題に影響されることも多い。
来年度の世界史探求の共通テストでは、時事問題の「シナイ半島での紛争」から、ユダヤ史、中東近代史(イギリスの三枚舌外交、委任統治領など)、中東現代史(中東戦争など)が出題されると予想している。
【各大問分析】
(大問1A)
中国史からの出題。問題文を含めると西周~清までの範囲を扱っており、特定の時代に注目していない。
テーマは「中国史における社会、政治制度」。
資料1は「李斯による郡県制の提案」、資料2は「博士の一人による封建制の提案」、資料3は「八王の乱」に関する内容となっている。
問題中だと直接的な言及はされていないが、ポイントとなるのは「中国における封建制の特徴」。
中国の封建制は「血縁関係(宗族)に基づき、封土の授受を行っている」ことが特徴である。
主従関係を結ぶ者同士が血縁関係にあるため信頼できる...というわけでもなく、血縁関係が原因で起きている反乱も多数ある。
問題で扱われていた呉楚七国の乱(前漢)、八王の乱(西晋)、靖難の変(明)が正にその代表例。
(大問1B)
中世イギリス史からの出題。
テーマは「ノルマン・コンクエスト」。
問題文ではヘースティングスの戦い(1066年)直前のハロルド2世とノルマンディー公ウィリアム両者の立場から、書かれた資料が載せられている。
資料を読み飛ばすと資料の正誤問題で間違えやすくなるため、注意すること。
(大問1C)
近現代イギリス史からの出題。
テーマは「社会保障政策」。
アトリー首相の「ゆりかごから墓場まで」(大きな政府)とサッチャー首相の「小さな政府」 の対比。
問題のテーマから外れるが、グラッドストン首相の業績は要確認。
(大問2A)
ヘレニズム期からの出題。
テーマは「後世におけるアレクサンドロス大王の評価」。
(アレクサンドロス大王の評価、研究史に関しては別記事2本くらい書けるような話)。
アレクサンドロス大王の東方遠征が19世紀後半では欧米列強による植民地拡大と結び付けられて、肯定的に評価されてきたという歴史背景は覚えておくとよい。
(大問2B)
19世紀アメリカからの出題。
テーマは「西漸運動」。
資料1は「ミズーリ協定」、資料2は「インディアン強制移住法」、資料3は「カンザス=ネブラスカ協定」。
まずは西漸運動の整理から。
8つの段階で考えると分かりやすい。
(A)13州 1783年
(B)ミシシッピ川東のルイジアナ 1783年←独立戦争時に入手
(C)ミシシッピ川以西のルイジアナ 1803年←フランスから入手
(D)フロリダ 1819年←スペインから入手
(E)テキサス 1845年←1836年メキシコから独立、45年に連邦加入
(F)オレゴン 1846年←イギリスから入手
(G)カリフォルニア 1848年←アメリカ=メキシコ戦争(1846~1848年)でメキシコから入手
(H)アラスカ 1867年←ロシアから入手
ミズーリ協定(1820年)
第5代モンロー大統領の下で成立した。
メーン州を自由州、ミズーリ州を奴隷州、ミズーリ州を除くミシシッピ川以西のルイジアナの中で、北緯36度30分以北では奴隷制を禁止、以南では奴隷制を認める協定。
ミズーリ協定成立までにアメリカ北部の州では奴隷制は禁止、もしくはほぼ消失していた。
しかし、南部の州は綿花プランテーションが主要な産業であるため、奴隷制が経済の基盤となっているという状態であった。
奴隷制を廃止したい北部と奴隷制を推進したい南部との妥協として成立。
南北戦争(1861~1865年)の原因となった、「奴隷制をめぐる対立」の始まりである。
アンドリュー・ジャクソン大統領(1829~1837年)
第7代大統領、初の13州以外出身、スポイルズ・システム(大統領交代時に官僚が総入れ替えになる仕組み、大統領が変わるたびに国務大臣なども変わる理由)と押さえるべき点は多い。
受験知識として重要なのは「ジャクソン・デモクラシー」と過酷な対インディアン政策だろう。
「ジャクソン・デモクラシー」
ジャクソン大統領の時、各州で白人男性普通選挙が採用されるなど、民主主義制度が発達した。
彼の権力基盤となったのは西部の開拓者と東部の労働者層である。
「インディアン政策」
彼の過酷な対インディアン政策の象徴ともいえるのがインディアン強制移住法(1830年)である。
ジョージア州とアラバマ州の先住民をミシシッピ川以西、現在のオクラホマに強制移住させた。
この大移動の際、チェロキー族で大量の死者を出す出来事が起きている(「涙の踏み分け道」)。
カンザス=ネブラスカ協定(1854年)
ミズーリ協定で決められた北緯36度30分以北での奴隷制の禁止を否定、準州が州へと昇格する際は奴隷制の有無を住民が決定できるとした協定。
この協定が契機となり、北部の奴隷制反対論者が共和党を結成した。
奴隷制の有無をめぐる南北の対立を決定的にし、南北戦争の直接的な要因となった。
マーク欄14の選択肢に関しても確認。
①涙の踏み分け道
インディアン強制移住法で説明した通り。
②ホームステッド法(1862年)
西部未開拓の土地、160エーカーを21歳以上の合衆国市民の男女、もしくは将来アメリカ国民になる意思を示した外国人に貸与、5年間開拓活動に従事すれば、その土地の所有権を獲得できるという内容。
リンカーン大統領が公布。
北部(連邦政府)が西部農民の支持を取り付けることとなり、南北戦争の戦局が変化する要因となった。
③アメリカ労働総同盟(AFL)
1886年に結成されたアメリカ初の全国的な労働組合。
1933年以降、ニューディール政策時の動きが重要。
④棍棒外交
第26代大統領セオドア・ルーズベルト(1901~1908年)がカリブ海地域・南米で実施した外交政策。
軍事力(棍棒)を背景に、西欧諸国の影響力を排除、これらの地域における権益を確保した。
⑤共和党の結成
カンザス=ネブラスカ協定で説明した通り。
⑥連邦派(フェデラリスト)と反連邦派(アンチ・フェデラリスト)の対立
アメリカ成立当初、連邦政府の権限の大小に関する対立を指している。
(大問2C)
冷戦、1950年代からの出題。
資料は「朝鮮戦争時のスターリンから毛沢東への電報」
グラフは「中華人民共和国の第1次五か年計画における各部門の投資額」(グラフの読み取りは見たままなので)
テーマは「冷戦期における東側陣営の動き」
冷戦期の東側陣営の動きはかなり複雑で正答率が低くなりやすい。
(冷戦期東側陣営の動きは「ソ連による他社会主義国への統制がどうなったか」を意識するとやりやすくはなる)
(冷戦期の東側陣営の動きは別記事で扱えるような内容)
東南アジア条約機構(SEATO)
1954年に結成された反共軍事同盟、1977年ベトナム戦争の終結により解体されている。
加盟国はアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンであった。
設問文の通り、アジア圏での社会主義国増加を防ぎ、アジア・太平洋地域において安全保障体制を構築しようとしたことが設立目的である。
東南アジア諸国連合(ASEAN)
中学社会でもお馴染みの東南アジア地域の経済協力機構なのだが...、結成時(1967年)は反共軍事同盟としての側面が強い組織だった。
結成時はインドネシア(親米政権のスハルト)、フィリピン(開発独裁のマルコス)、タイ、シンガポール(開発独裁のリ・クアンユー)、マレーシアの5か国で構成されていた(所属国の首相、大統領から見ても明らかに地域協力よりは反共同盟)。
マーク欄16の選択肢も確認。
それぞれ東欧の東側陣営の動きとなる。
①ポーランドのポズナニ暴動(1956年)
1953年にスターリンが死去、1956年2月にフルシチョフがスターリン批判、1956年4月にコミンフォルム解散とソ連による他社会主義国への統制が弱まる中で起きた事件。
元々は労働者の待遇改善を求めてのデモ活動であったが、先述の要素が加わって反ソ連暴動へと変化。
この事態を収拾したのはスターリン死去前に失脚したゴムウカであった点は注目。
②ルーマニアのチャウチェスク処刑(1989年12月)
1989年に東欧の社会主義諸国で連続して起こった一連の改革運動を東欧革命と呼ぶが、その締めくくりとなった出来事。
チャウシェスク大統領の政策に関しては、ここには書けないので...
(『チルドレン・アンダーグラウンド』、『BLACK LAGOON』あたりがおすすめですかね)。
③フランスのレオン・ブルム人民戦線内閣(1936年)
第7回コミンテルン(1935年)が打ち出した人民戦線戦術の影響を受けているのが特徴。
人民戦線戦術とはファシズムへの対抗を目的として、共産党が社会民主主義者など他勢力と協力することだと考えると分かりやすい。
(立民や日本共産党が対自民でやっている野党共闘に近い)。
④チェコスロバキアの共産化事件(1948年)、「プラハの春」(1968年)
チェコスロバキアの共産化事件(1948年)
国内でのアメリカのマーシャル・プラン(1947年にアメリカのH・トルーマン大統領が打ち出した共産化を防ぐための欧州諸国への経済援助)受け入れをめぐる対立から生じた事件。
この事件でチェコスロバキア社会主義共和国(1948~1989年)が成立。
「プラハの春」(1968年)
当時のチェコスロバキア共産党第一書記のドプチェク主導による国内の民主化運動。
しかし、同年の8月にソ連を初めとしたワルシャワ条約機構5か国がチェコスロバキアに侵攻し、ドプチェクを逮捕した(「チェコ事件」)。
この事件の際、ソ連のブレジネフが発表したのが「ブレジネフ・ドクトリン」。
(社会主義国全体のためには1か国の主権が制限されても構わない、この内容から「制限主権論」とも呼ばれる)
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