江蘇省宜興 宜興烈士記念館 宜興党史陳列館レポート②
前回記事の続きからである。
宜興烈士記念館を出た私は、次に党史陳列館へ向かった。ここでも記名が必要であったが、荷物もロッカーに預けなければいけないなど烈士記念館より厳重であった。
1924~25年にかけて宜興で軍閥と戦ったが負けた。このとき有名な郭沫若が宜興に来て演説をしたそうです。
五四運動において北京で参加した宜興出身の大学人もいたが、宜興の学生200名も様々な活動を行った。
初期の宜興籍の共産党員たち、宜興で入党した人が2人しかいないし、ほとんどは宜興以外で活動してる、特に呉さんなんかはパリで入党している、すごい。
呉さんはパリで入党し、ドイツに移っても活動を続け、朱徳や周恩来とも交流があったよう、文革やなんかを耐えきって1980年上海で没。宜興出身の別の知識人党員は50年代に内奸問題で逮捕され政治権利をはく奪され、文革で再び刑務所行きで獄死して80年に名誉回復なのでこれはすごいことである。
下は党が指導して成果を上げた三つの闘争、詳細は前回説明したので省く。
農民暴動の展示、ジオラマがすごい。
秋収蜂起と連動して宜興でも農民暴動が行われたが失敗してしまった。党の冒険主義路線の失敗である。
当時張り出されたスローガン。左から「農民協会万歳」「打倒土豪劣紳」「農民革命斉歓唱」
ここから抗日戦争の展示に入る。
当時の内閣府の発行していた週報に付録で出た日中戦争一周年の戦況図、宜興は11月29日に占領となっている。それにしても日本軍、中国の都市を爆撃しまくりである。そりゃアメリカ軍の報復爆撃で焼け野原にされても文句は言えないね。
日本軍による宜興攻略作戦中の戦果の展示、いろいろやってるようである。
当時の宜興周辺に展開した日本軍の写真、かっこいい。
宜興への進行はなぜか陸上からではなく湖側からの船による奇襲であったらしい、謎である。小舟に日本軍の兵隊さんが満載になっている。お疲れ様である。
当時宜興で11000人ほどが死んで、塩から木材から何もかも損害を受けたらしい。価値は算出できないそう。さぞ日本軍はもうかったに違いない。
当時の抗日組織の一覧、いっぱいあって頻繁に名前が変わっている。
国民党の愛国将兵が宜興で抗戦した展示、共産党しか戦ってないという教育がされていると主張するのが日本人のテンプレの主張だがそんな馬鹿なことはないのである。
抗日戦争の烈士証明書、元国民党軍将兵にも送られている
下は日本軍の師団印、中国軍が奇襲により奪取したとされるが日本側の情報がないので真偽不明、本当だったら貴重である。鹵獲されたのビルマだけど宜興出身の人が持ち帰ったらしい。
南京陥落後の掃討戦で1000人くらい死んだらしい。
抗戦時期に地元出身の画家が描いた絵。裸一貫で頑張る人民の姿がある。
国民党側の軍服、ラッパ、雑嚢、軍機、短機関銃の展示、かっこいいね。
新四軍が敵の後方に浸透する木庭で1938年から南下して敵工法で遊撃戦を行ったという展示。
上は新四軍が初めて勝利した記念写真、手ぬぐいなどと兵器の鹵獲品の記念写真である。
当時の抵抗本部の建物、躁病だけあって立派である。
抗日民主人士の展示、日本軍に抵抗するために農民や労働者だけでなく、資本家や地主などの中の愛国人士も積極的に新四軍に協力した。
宜王周辺の抗日根拠地で大きな戦いがあった場所。
そしていよいよ日本軍に最後の時が訪れる、下はソ連軍の外套、そう、ソ連が対日参戦し、満州・挑戦を日本帝国主義の暗黒支配から解放したのである。
新四軍も一気に反攻に転じて、宜興周辺で六度の攻勢を行った。
そして、長かった中国の15年にわたる抗日の戦いについに終止符が打たれた。日本帝国主義者が無条件降伏したのである。
日本軍や傀儡軍は新四軍に降伏することを好まなかったために戦闘が起きたのは前回参照。
国民党の残酷な支配の中、戦略配置で新四軍主力が北上し、地下党員や遊撃隊が主役となった。下は国民党の警察などの祖機器の目をかいくぐって、特務(秘密警察)の解体と愛国政治犯の釈放を求めた英雄のジオラマ
前回も書いたが、密告により包囲されて降伏せずに戦死した8人の烈士の写真。斬首されている。処刑地には記念碑が建てられた。
1949年4月24日に宜興は解放された。当時の写真とそれを伝える人民日報。
党建設時の学習文献、党の建設を論じるや軍制大学の歴史などの本や当時の情勢を解説している本。
軍民一家、水魚の情の展示、荒廃した宜興に解放軍が積極的に支援したことの展示である。
江蘇省宜興の人。潘健行、水番三郎、K、小開、蕭淑安などの仮名を用い、天長、亜霊、溌皮、溌皮男士、愛仙、蕭愷などのペンネームがある。曾祖父、祖父は清朝の挙人であった。父親は秀才であった。著名な学者潘梓年(1893-1972)と潘菽は彼の従兄である。父親は浪費家でその為家は落ちぶれた。潘漢年は常州中学で学んだ。1923年進歩的文芸運動に参加。1924年創造社に加入、創造社の「八人の若き同伴者」の一人である。同年、『洪水』誌の主編をつとめる。1925年中国共産党に加入。第一次国共合作時期、前後して『革命軍日報』編集長、国民革命軍総政治部宣伝科長を歴任。1927年大革命失敗後も引き続き革命的文化運動に従事。文芸雑誌『All』、『幻洲』の編集に従事、『現代小説』を主宰、『畸形』半月刊の編集を担当。1928年、党中央宣伝部の配属となり、文化、出版、文藝界における統一戦線の連絡工作の責任を負った。1930年左聯が成立したとき、彼は重要な組織者の一人であった。その他にも、「社聯」「劇聯」「上海藝術劇社」の指導工作を行なった。党中央直属の文化工作委員会の初代書記であった。更に左翼文化総同盟党組書記、防衛自由反帝大同盟及び国際互済会などの仕事も担当した。1931年から1933年まで中央軍事委員会「特科」に配属され、1933年ソビエト区の中心瑞金に行き、江西ソビエト区党中央宣伝部長などを歴任。1934年紅軍とともに「長征」に従軍するが、遵義会議の後、コミンテルン工作に派遣される。1936年7月から中共上海弁事処主任。1937年第18集団軍駐上海弁事処主任。大量の抗日救亡工作を行なう。1949年以後、中共中央華東局及び上海市委社会部長、上海市委常務委員会、副書記、第三書記、上海市副市長などの職を歴任。1955年4月3日、いわゆる「内奸」問題で逮捕され、予備審査8年、1963年に懲役15年、政治的権利を終生剥奪される。その後仮釈放されるが、「文化大革命」初期に再び収監され、党籍を永久に剥奪、無期懲役の判決を言い渡され、終生の政治的権利を剥奪される。1977年4月14日病死。1982年8月23日、中共中央はその冤罪を雪ぎ、名誉回復をするために、過去の判決を撤回し、彼の歴史的功績を追認した。
まあ、出身階級が悪いし、政治的にもうまくいかなかった人である。宜興の共産党組織が割と押している人らしく、一部屋が彼の功績の展示室であった。死んだ後にこんな感じにされてもな感があるが、なにもされないよりはましであろう。
名誉回復の文献はあるのに、なんで捕まったのかが書いてない。国民党関係と南京の傀儡政権との解放前のかかわりが問題視されて投獄されていたのである。
次は社会主義建設時期の展示に入る。49年から78年までである。
だれですか?中華人員共和国では共産党は無謬だって教育されてるって言ったバカは、思い切り大躍進と文化大革命の展示があるじゃないですか?特に文化大革命なんて十年の動乱なんて書いてありますよ。
宜興県人民政府成立の布告。
解放初期には土匪や地主、国民党と組むが武装し1400人余りで地方を荒らしていたので、匪賊討伐の司令部を設置して反革命運動を鎮圧した。
反革命分子の鎮圧と並行して、朝鮮戦争が勃発したので宜興でも抗美援朝運動が行われた。
こんなところで朝鮮の国旗勲章を見ることになるとは思わなかった。三級、さび具合からおそらく本物だと思われる。
章記なども全部ハングルなので何を書いてるか全くわからなくて困る。
こっちはわかる、功績と功臣の略歴が書いてある。
朝鮮戦争中、国内では土地改革が進んでいた。地主の土地は農民へ分配したのである。もっともこの後すぐに人民公社運動で取り上げられるのであるが。
婚姻法の成立と貫徹、自由婚姻ができるようになり、恋愛結婚が主流になってくるのはこの後からである。
国民経済を回復させるために展開された愛国増産運動と国営工業の建設に関する展示、社会主義経済の建設と復興が急ピッチで進んでいった。
社会が回復してきて、社会事業も復活してきた、農閑期の農民の学校や、水上生活者の子供に対しての教育が行われたり、バスや鉄道の復旧や敷設が行われた。
紆余曲折の中での前進、人民公社の建設の中でいくつもの誤りが生まれた。様々なものが大消費されて無残な結果が現れたとされている。
大躍進での後者の軍事組織化、行動の戦闘化集団生活化の中で脅迫命令や特殊な「共産風」などが蔓延し、農村の経済は誤り、発展が遅れた。人民公社は宜興に25ほど存在したが、1983年に一切消滅した。
水上生活者の子弟の教育は主に地上の寄宿舎で行うが、一部の教師は船上におもむいて授業を行い、労働模範となった。教えるほうも大変だが学ぶほうも大変な話である。
ここからは文革の展示である。だれですか?文革なんて中国では教えられてないって言っている人間は?怒らないから出てきなさい!
文革が66年の6月に始まると、学校、文化施設、農業工業に重大な影響が出て、経済社会秩序が乱れたと書いている。文革は間違いだったと公式が言っている通りである。私はそう思わないが。
文革が終わり、四人組が逮捕され、四人組の批判大会が行われた。
文革の犠牲者の展示もある。おおよそ2万人余りが被害にあったことがわかる。
全県下であった18634件の冤罪事件の名誉回復が行われた。
改革開放の実現と中国の夢の宜興での実践
全国科学大会へ出た5人の宜興人
輸出用経済の構築のための企業誘致の展示。
郷鎮企業なども生まれても潘地区だったりしたらしいが今は残っていない。
改革開放が進んでいき、公営経済がどんどん私的経済へと変わっていく、社会主義が大幅に後退していき、国営企業では労働者大会で民営化が議決された。
あたらしい実験小学校などができる傍ら、陶器生産では資源保存と環境保護のため土の採掘が制限された。
北京オリンピックの鳥の巣のスタジアムの素材の鉄鋼やガラスに宜興のものが使われていたらしい。
宜興にある有名企業、レッドブルや中国たばこくらいしか知らんなぁ。
マンションなども建設され、街並みがどんどん現代化されていく。私は一番左が好きだが、外地の人がそれを言うのは傲慢というものだろう、誰だってきれいで新しいほうが良い。進歩と発展のほうが良いのが当たり前である。
現代の宜興の展示、中心市街地が模型であらわされている、2035年には現代的な大都市になるように予定しているらしい。人口135万人くらいの小さい市が頑張るものである。
党の学習の展示で、初期から今に至るまでの共産党規約の展示があった。こういうの大好き、なんぼでもあっていいですからね。
時間ギリギリだったので、職員にせかされるように建物を出た、まだ見学していないところがあるので、そこを見に行くことにする。
宜興革命烈士の記念碑である。しっかり頭を下げてきました。烈士記念館と陳列館で、人民解放闘争からいままでの数々の英雄を見てきてこれを見ると、目頭が厚くなりますね。
駐車場にレリーフがあったので、それを見て今回の見学はおしまいです。
まとめ
駆け足でしたが、宜興の革命烈士記念館と、党史陳列館を見てきました。皆様いかがでしたでしょうか?私は大変楽しめました。
当たり前ですが、地元の歴史を扱う関係上、日中戦争なども展示していますが、まったく現代の日本に対する誹謗中傷などはありませんでした。ただあったことを書いているだけです。
また、共産党の誤り、蜂起の失敗や大躍進、文革などの展示もあり、極めて質のいい展示だと思いました。
入場料も無料なので、ありがたいですね。
烈士記念館のほうが展示方法は凝っていましたが、主に複製の展示が多く、内容が薄く感じました。陳列館は、派手さは烈士記念館ほどないものの、実物の展示が多く、当時の世界情勢や、人民の生活の展示があり、楽しめました。特に、戦争以外や現代、これからと幅広く展示しているので、もしどちらかしか見れないというのであれば、党史記念館のほうをお勧めします。
みなさんももし宜興へ行くことがあれば、尋ねてみてはいかがでしょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?