パンクぎらい

大家さんが町田康を読んでいる。

かくいう僕も音楽好き、ロック音楽好きを明言している以上、読まねばならんと思った日が、夜が、夜明けが一再ならずあった。けれども経歴を調べているうちに、癪に触るようなかっこよさがあったためなるべく触れないよう見聞きしないよう読まないよう努めていた。

第一に、かくいう僕も音楽好き、ロック音楽好きを明言している以上、町田康が以前、町田町蔵という名でINUというパンクバンドのボーカルとして日本のパンクミュージックシーンを席巻していたのは知っていたし、なんならINUのアルバム『メシ喰うな!』を所有していたし、他のCDとともに後生大事に保管しようと努めて棚に並べていたし勿論拝聴だってしていた。嗚呼かっこいいなあ! こいつが僕の作った楽曲であったらなあ! だなんて感嘆符に酔いしれたり管を巻いたり嘔吐したりしていた。

していた、と回顧に浸ってしまったのは、それは無論、職を失い貯蓄も尽きた頃に他の所持していたCDとともに売り払ってしまって、それで得たお金は酒代と煙草代に消えたからに他ならないのだが、というのも、それもこれも『メシ喰うな!』などとちょっとキツめのお叱りを、意気消沈してしまうような叱責を、良心の呵責に耐えられなくなるような物言いをされたからなのだ。メシ喰うな、その言葉に抗ったまでである。

こちとら、己が身がかわいい。可愛くて可愛くて仕方がない。こんな穀潰しだけれども抱きしめてあげちゃおうかな、こんな世間から憐憫の目でもって後ろ指さされている僕だけれども、せめて自分は自分を愛してあげなきゃ、ならばハグしてあげちゃおうかな、そう思い、反発したまでである。生きていくには身を挺してでも、恥をしのんででも戦わなければならないときがあるのだ。

数百枚あるCDを買い取りしてもらうために買取店舗に持ち込んだとき、僕は少なからず葛藤した。買取り金額を提示されたとき、僕は少なからず狼狽した。やめておこうかどうしようかとレジの前でしばらく考えあぐねて、あーとか、うーとか、おーとか、もーとかいった主に「あ」行で発する呻き声で、自身の懊悩する様を、僕の心中などてんで知らない察しようともしない店員にありありと見せつけた。

店員もまた狼狽えていた。どこかで見たことがあると思えば深夜のコンビニエンスストアでも働いている男であった。僕は彼の生活を察した。苦学生であろう、苦学生に違いない。だからかけもちでアルバイトをしているのだ。頭が上がらない。足を向けて眠れない。即ち、北枕である。いやしかし僕は、いちいち東西南北を気にするような風水占いを信じていない。風水でいうところの鬼門。そんなものがあるとするならば、おそらくCDを売り払わねばならなかったその時こそが鬼門であったのだろう。

確かに買取専門店の屋号は「鬼門」であった。地面を引きずりそうな長さの真っ白い暖簾に、そう書いてある。そして僕はその暖簾を、生活と命をつなぎとめておくためにくぐり、その先に足を踏み入れたのだ。そうして買い取ってもらったCDの成れの果てをポケットに入れた。

店を出た僕は、半ば浮かれた気分で足取りで表情でいたに違いない。すぐさまコンビニエンスストアに寄り、酒と煙草を購え、そうして四分の三浮かれ気分で足取りで表情で、ちょっと高価な酒缶のプルタブをおこし、ちょっと高価な煙草に火をつけて燻らせながら、なんだか満たされた気分、満たされた足取り、満たされた表情になった。

そのようにして出会い別れた町田康であった。だからいろいろと感慨深くはあるけれども、懐かしくもあるけれど、しかし触れてはならないと思っていた。触れたら最後、抜け出せないのである。しつこい油汚れがの如く、手の平がぬめってしかたがない。ようやく皿の油汚れはとれたけれども、片手でスポンジ、もう一方の手で皿を掴んでいるためか、その手が油にぬめってしかたがない。食器を洗ったことのある人なら一度は経験しているのではないかしら。ある。そう信じている。ある。そう信じてやまない。ある。あるのだ。

実のところ僕は、彼の小説を読んだことが一度、二度、三度はある。

その三度、前述した食器洗いのような弊害を受けた。町田康の文体はかっこいい。だのに、いったいどうして僕は、昔から日記を書くのが好きであったはずなのに、これまで書いていたものが、誠に面白く感じられないように思えてきたのである。それは筆を止めることにもなった。自分の文体のかっこ悪さをまじまじと見せつけられた気分になってしまったのであった。そのくせ日記を書くときの文体が、いったいどうして町田康を意識してしまうので、たかが日記を書くだけだのに、筆を折りたくなった。これはいけない。そう思った。ファッション雑誌のモデルが着ている洋服一式を買って自分で着てみたところで、格好がつかないのと同じである。だから僕は決心し、二度と読まないでおこうと決めたのだ。だのに、つい魔がさした。

ちょいと百円コーナーを覗いてみようかと赴いた古書店「ハナラビ」。谷崎潤一郎の『痴人の愛』を再読したいなあと自動ドアをくぐったのがいけなかった。

その玄関先に「立ち読みはご遠慮ください」といった貼り紙があり、こういうご時世だから仕方あるまい、致し方なしであろうと早足で百円コーナーに行き、目当ての谷崎潤一郎の著書を探して手に入れ購えさっさと帰ろうと思っていたのだが、生憎潤一郎は百円コーナーには見当たらず、けれども立ち読みをするわけではないから、ひととおり「あ」行から目を通して帰ろう、床に胡座をかいて立ち読みならぬ胡座読みをしている老人があったけど、その手があったかと感心したものだけれども、それはよくないと思いながら「た」行にさしかかり潤一郎を探すも、ない。

ひととおり読み終えている太宰に態々目配せをして、次に「つ」の筒井康隆の棚に目をやった。

しかし筒井康隆の著書は所有しているものがほとんどだし、ここで買うよりも二十円安く売っている店を僕は知っていた。場末のスナックの女のような店主が営んでいる古書店に行けば二十円も安い。そして駄菓子屋も兼ねているのでその浮いた二十円で、うまい棒を二本も買えるではないか、それになぜか知らないがその古書店には筒井康隆先生の本がおおむね揃っているのである。ならば今ここで筒井康隆先生の著書を著者近影をお目通しすることはなかろう、と思い、再びめぼしい作家はいないかと探した。「な」行、「は」行、ときて「ま」行まできた。

あ、しまった、と思うも時すでに遅し。

「ま」行には彼がいたのだ。町田康である。お、町田康、なんて口をついて出た。ついうっかり「ま」行なんて、あまり思い当たる節もないから油断してしまったのだ。あるではないか。いるではないか。僕としたことが、倦厭しているものこそしっかりと記憶しておかなければならないではないか。危機感のなさここに極まれりではないか。と自嘲にも似た感傷に浸って、少しその場に立ち止まったのが悪かった。お、町田康。お、町田康。お、町田康。言うてる場合ではない。お、言うてる場合ではないのだ。

しかし僕は、お、町田康、と目にして、躊躇い、手、伸ばさないでいた。なぜかしら、どうして「ま」行にあるのかしら、なぜ自分は「ま」行にいるのかしら、なぜ「ま」行であらなければならないのかしら、「ま」行だからだよね、「ま」から始まる苗字だもの、そりゃ「ま」行だわ、そうだよ当たり前じゃん、とひとりごちるなり心のうちに留めるなどして、背表紙を執拗に睨めつける。

どうやら著書のタイトルは『パンク侍、斬られて候』であるらしく、らしくというかそれで間違いない。そう書いてある。それで僕は、その確信めいた背表紙を、眼光の鋭いパンク愛好家のようにして睨めつけていた。

忌々しいパンク。決して熱心なパンク愛好家ではない僕も勿論パンクミュージックの洗礼を受けてきた。

それこそ心を鷲掴みにされ、嗚呼もし僕がうら若き乙女であったなら身も心も捧げて滅茶滅茶にされたって良いと思うこともあれば、それとは反対に、二度と戻れない日々にタイムスリップしてその音楽性をドブに投げ捨てたくなるような気持ちになったこともあった。レベルミュージックが根づいた日常を送っていないのもある。英国は倫敦の若者事情なんぞ知るかボケといった境地に僕は身を埋め、没理、即ち、何者かであろうとはしておらず、誰かさんの真似事をするに終始していたのだった。そんな愚か者の心にパンクミュージックは歩み寄ってはくれないし、僕としても肩を組んで共にあろうとは思わなかった。あんよが上手と褒めて手を叩き、こちらに誘導しようとも思わない。なにより何かそういったものが気にくわなかった。それに尽きる。そのファッション性も相まって吐き気がしていたのだ。

そんな心境を長年拗らせてきているのもあり、加えて近眼でもある僕が、けれどもパンク愛好家のそれと同じ目つきをして背表紙に顔を近づけている姿は、たぶん、きっと、ことの流れで酔った勢いで接吻をしそうになっている男女のような、なんだか妙にロマンチックな雰囲気を醸し出していたに違いない。今夜は抱けるかもしれない、ホテルどうしよっかな、この近場にあったっけな、なんて妄想をしつつ、けれども手、伸ばせば負けた気がするので、手、伸ばさないよう努めるのだが、あいや、手、伸びてしまって、棚からひっぱり出してしまって、いけないなあいけないなあ町田康の著書につい手が伸びてしまったよいけないなあと思い手にとった本を、いまいちどもとあったところに、元鞘に収めようと試みるのだが、指、表紙を睨めつけたのも束の間、表紙をめくってしまって著者近影の写真、その写真に映る作家と目があってしまって僕はほんと恥ずかしくなった。いたたまれない。いたたまれない気持ちで、いちど息を飲み、唾を呑み、酒の肴にもってこいな品物を想像し、表紙を閉じて、いけないなあ、いけない。背徳。これは己の内側にいる神に背く行為であろう、いけないなあ、と思ってみたけれども束の間、指、正確には親指と人さし指の先で、穢れたものをつまむようにして再び表紙をめくってしまい、するとやはり著者近影と再び目があって、何か申し訳ない、気恥ずかしくなるような、気になっている女子を二度見したときに二度とも目があってしまったような面持ちになり、いけないなあと思いつつ、しかし指がおいたするのを止められない。一頁目をめくってしまったのである。

そうすると自ずと、こちらが意識しようがしまいが冒頭の一行目が目に入ってきて、読書を嗜みとしている自分だからこそ目に入った瞬間にさらっと読めてしまうのであって、これはいけない、いけないなあ、と思いつつ読みはじめてしまう。はっはーん、さてはこれは、もしや僕が手にとるとでも思うているのかと自分対自分のせめぎ合いをしている場合ではなかったのだな。だからこうして手にとってしまったのだな。これはいけない、いけないなあ。と前髪を掻き毟りながらも、くんずほぐれつする段になった。

「立ち読みはご遠慮ください」その通りだと思った。これは忠告である。立ち読み、それは即ち、足を止め、本を手にとりページをめくり、読み進めることなのだ。その忠告に従っていれば少なくともページをめくりはしなかったのではないか。めくりはしても冒頭の一行を読みはしなかったのではないか。一行を読みさえしなければ読みすすめはしなかったのでないか。読みすすめさえしなければ購入に至らなかったのではないか。しかし僕は、一ヶ月のおこづかいで一本の缶コーヒーを辛抱できずに購えてしまうよりも、同じような価格で本を買えるのなら、その方が有意義に感じられ、悔いは残らなかった。

「人に薦めておきながら、邪魔をするとは何たる所行」

大家さんはすでに28ページ目にさしかかっていた。読書家の大家さんだけあって、読むのが早い。買ったばかりの町田康を「読んでごらんよ、僕はあとで感化されないように心の準備ができてから読むから」と手渡してから、ちょいと喫煙をしに外に出て戻ってきたらば、すでに27ページ目を読みはじめていたのである。

読書家といっても、いわゆるエンタメ小説に造詣が深いばかりで、純文学には触れてこなかった大家さんにとっての初めての町田康体験を僕は楽しみにしていただけに、飲みやすい日本酒のようにすいすいと読み進めてくれているのは素直に嬉しい。読書とは体験である、と偉い誰かも言っている。一過していくものに触れるきっかけがあるのなら、迷わずそこに飛びこむべきだ。それが人間の高みの何たるかなのだ。しかしその最中にあるのにも関わらず僕は大家さんに横槍を入れていた。「かっこよすぎなんだよね。マチコーは」

町田康をマチコーと省略するのが正しいのかはわからない。なまじ好んで聴いていたバンドのフロントマンなので、誰も文句は言わないだろうし、こう呼べ、といった指示もされていない。だから僕は、マチコーはさ、と切り出した。そして、かっこよすぎなんだよね、だいたい彼はそもそもパンクバンドで云々、と大家さんよりも優っているマチコーの知識を言って聞かせる。衒学。

「すまんが暫し黙っていてはくれぬか。私とて憤懣やるかたない思いになるぞ。私とて」

暇が有れば読書をする悪癖のある大家さんは、僕と出会ったころにはすでに文語体で喋っていた。あれは、初めて2人で飲みに出た日のことで、外は生憎の雨だった。「龍神様が守護してくださっているって聞くよね。雨男雨女には」とマヌケなことを言う僕が傘を忘れてきたので、大家さんは自分の傘に一緒に入れてくれた。前日にテレビで紹介されたおでん屋の灯りを探しながら道を歩く。「大家さんは、自分が文語体で喋っていると自覚はあるの?」と聞くと、ない。とLINEの返信に句点をつけられると何故か妙に冷たくなる感じに返事をされ、僕はいささか恐縮したのだが、文語体で話す人とは珍妙だな、と思うとすぐに緊張の糸は切れていた。「まあでも、あれよ、僕だって、何々に於いてって言っただけで突っ込まれたことあるよ。於いてなんて使わないんだってさ」

おでん屋「無情」の暖簾をくぐって、入り口のドアを開けたすぐ玄関側の席に腰かけ、とりあえず生ビールで乾杯したときも、大家さんは文語で、まるで活字を読まされているような感じに、乾杯。と云った。当人も自覚はあるようであったが、乾杯。そのひとことから本の虫であるのを悟られる人はあまりいない。乾杯。と、いかにも堅い、堅実そうな口調。諸行無常。

生ビールをひと口飲んで大家さんが、「のっぴきならない話があってね」と口火を切った。そして思い改まり、すぐに言い直す。「会社で腹立たしい話があったので、し始めても良いですか?」と僕に了承を得るように問いかけてきたので、いいよ、と返すと大家さんは話をし始めた。公序良俗に反してはならない、というのが大家さんのポリシーで、中指を立てることをしなかった。そうしておでん屋の夜はとぷとぷと更けていった。

読書体験に勤しんでいた大家さんの「私とて」をいなして僕は喋り続けていた。

「ほら、所詮は芸事だから、誰かしらが上手にやってのけているとキャッと悲鳴をあげて胸を締め付けられるような気持ちになる、と誰だったか、贔屓の作家も言っていた。僕にとってのマチコーはね、そういった存在なのよ。他人様の日記を、文章をインターネットで読み漁っているとね、やけに洒落た文章に出会うわけ。おやおやこれは、なかなかかっこいいなって。するとね、好きな作家にマチコーとある。僕は悲しくなっちゃうのよ。でもそれくらいいつのまにか影響されてしまう文体なんだよマチコーは。だから僕は、なるべく読まないようにしている。かっこいいのは肌に合わないし、なにより素人の僕がやったところで他人様の心をどうにかできるわけじゃないし」

観念したのか大家さんは、フィットネスクラブの会員カードを栞代わりにして本に挟んでいる。僕はまだ『パンク侍、斬られて候』を読む決心がついていない。

純文学に苦手意識のある大家さんが町田康を読んでいるのがあまりに珍妙だったので、ふと思いたって文章をしたためた。日記にこだわりたいし、推敲したり改稿したりして文章の鍛錬に励みたいのも山々なんだけど、こういう勢いで書いていくのもたまには良いのかも。楽しいし。息抜きになる。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集