告白

 僕のハートが泣いている。僕の純真なシェイクスピア・ハートが歔欷している。
「やあベイビー、君を助けたい」ってね。

 こと恋愛において僕は奥手であった。「好きです」そのたった一言を口にするのをためらった。女子との会話も照れ臭くて仕方がないのは勿論、恋愛感情を抱いている相手に対して挨拶のひとつもできない僕にとってその一言は、軽々しく口にできる言葉ではなかったのである。助けてあげたいのはピュアな自身のハートである。しかしピュアなハートを傷つけたくないゆえに僕は血迷った。

 本来ならば、やあ、おはよう、本日はお日柄もよくお散歩日和だねえ、なんて間の抜けた、しかし返事のしようがある挨拶を交わすことから始めるのが道理なのであろう。
 それが板についてきたらば会話のきっかけを作るように心がけ、そうして自然に会話がなされるようになったら、気のある素振りを見せつつしかし悟られないようにほど良い距離感を保ち、共に机に向かって励む勉学や遊びの約束なんかをとりつけるなどして親交を深めていく。それから交遊とは名ばかりのデートにそれとなく誘い、いざというタイミングを見計らい、ここぞという段になって初めて「好きです」と告白。というのが筋なのだろうけれども、あれは卒業した中学校の登校日、朗らかな天気に恵まれた三月の末のことである。

 中学校を卒業したばかりだったのにもかかわらずその年の卒業生徒一同が母校に集っていた。これは母校の古くからの習わしであったため僕も含めた卒業生一同はさして気にすることはなく、四月から高校生となる不安や希望をめいめいがちょっと背伸び気味に語りあっていた。
 その中には僕が恋してやまない田村さんもおり、もう二度と会えはしないだろうと落胆していただけに僕は、なんだか気が浮ついて、気が動転して、気が狂いそうになりながらもどうにか正気を保って、ちらりちらりと遠くから彼女の姿を目で追っていた。
 追っていたのだが、なんだか彼女の様子がおかしい。振り向かないのである。ならば今一度ちらり、むむ、気づいていない。めげずに再びちらり。これだけ目配せをしているのに視線を感じていないのかいっこうに振り向く気配がない。僕がいるこちら側と田村さんがいるあちら側では世界線が違うのではないかと錯覚してしまうほどである。いや、そんな夢物語があるはずはない、どれもういっちょちらり。と、そんなにちらりを僕が繰り返しているものだから、友だちは呆れて、そんなに一瞥を繰り返すのならいっそのこと凝視しちゃえよ、と言う始末で、なるほどそうだなその通りだなと僕は妙に納得をしたものだが、その友だちが呆れ果てつづけるのはあまりに不毛と判断したのか奸計をめぐらせていたらしく、そうだ好きな人に順番に告白しようぜ、告白大会だ! と虚をつくようなことを言った。
 あまりに唐突なことだったので計らずも僕は口を滑らして、おう良いね、なんて思ってもみないことを言ってしまい、あっあっあうあーっと口ごもりながらロッテンマイヤーと言うような語調で前言の撤回を申し出ようとしたところ、提案した男の他に三人はいたであろうか、その連中が、おう良いねおう良いねおう良いねおう良いね、と一様にして異議を唱えず賛成の意を表明していた。多勢に無勢であった。これでは太刀打ちできない、少数派の自分の意見などとてもじゃないが押し通せやしまい、引き下がるのもやむをえまい、と僕は彼らの与り知らぬところで引き下がった。
 それでもやはり告白大会だなんてそんなバカな行事があってたまるものか、と僕は思っていた。貴様は神聖なる僕の恋心を愚弄する気か、それともあれか、あれだろう、僕がフラれてあれしちゃうところを嘲笑する気なんだろ、人の幸せは癪の種、人の不幸は蜜の味とも言う悪趣味なあれだろう、と卒業式以来久しぶりに訪れた教室で不平を訴えようと内心では思っていた。しかし思ってはいたが口には出せないのである。まるで「好きです」そのたった一言を口にできずに懊悩としてしまう片思いのようであった。
 しかしその刹那。いや待て。いや、ならば待てよ。いやしかし待てよ、いやしばらく待たられよ、仮にこれが片思いのようであるのならば立ち止まっていては何も始まらないのではないか、と僕の頭の中に閃光が走った。
 せっかくこうした機会に巡り合えたのだから、あやかるのも一興なのではないか。これを好機と捉えるのが最善なのではないか。これはひょっとするとひょっとするぞ、とその場の空気に呑まれ流されたのも相まって、僕は考えを改めることにした。バカな行事と揶揄していた告白大会に臨んでみようと決心がついたのである。

 その日の夕刻。あまり素行のよろしくない荒くれ者どもが暮らしていると噂の団地には似合わない小さな公園、通称「ゾウさん公園」に僕たちはいた。僕が告白をする順がきたのである。
 はじめ、田村さんがこの団地で生活をしていると聞いて僕は耳を疑った。しかし、なにも住民のすべてが荒んでいるわけではないらしく、現に連れの友人もこの団地で暮らしているのだが、育ちは悪くあっても人の気持ちを慮る躾はしっかりとされているように見え、つまり悪行の限りを尽くした者ばかりがこの団地をなわばりとしているわけでもないらしいと推測され、それに田村さんとて成績優秀で行儀もよろしく、彼女がその友人らからタム姉さんタム姉さんと親しまれているのを陰でこそこそと聞き耳を立てたり忍ばせた密偵に報されたりして知っていた僕は、ゾウさん公園のようにこの団地に似つかわしくない人もいるものなのだなあ、やあやあ流石は我が愛しのタム姉さんと感慨に耽っていたのだが、まもなくして現実に引き戻された僕は、子像の形を模した鉄のすべり台のちょうど像の背中にあたる部分で、ただひたすらに気を揉んでいた。
 田村さんの自宅に近いこの小さな公園に僕たちが着いて、かれこれどれだけの時間が経ったのであろうか。
 子像とジャレてばかりであまりに僕が腰を上げないものだから、同じく気を揉んでいるであろう友人たちが、さ、決心はできたか、ささ、早く、さささ、いいかげん早く、さ、タイミングが大事なのだよだから早くして、もう待ってらんない帰りたい、と僕の背中を押してくれていたのだが、その押されている当人はやはりいっこうに決意が固まらず、子像の背中を撫でてみたり、砂をかぶっているそのつぶらな瞳に悲しみに暮れている自分の姿を見いだしてみたりして、ただ過ぎていく時の流れに身を委ねていた。
 そうして僕は「時は無情にも流れていくのだなあ」と空を仰ぎ、雲の形をクジラや蝶々や何かになぞらえてみようと思案して、試みた。雲。雲。雲。雲。しかしそれは雲に違いなかった。ゆらりゆらりとすべり台の子像が足踏みをしているような気がした。

 ややあって近くのボロ屋から夕食の匂いが漂ってきて僕の腹の音が鳴った。
 そうだな、こうしてはいられない。子像の背中に乗っていつまでも揺らいだ決意と戯れているわけにもいかない、と僕は腹をくくった。友人たちの後押しのおかげでもあった。険しい山を登るが如く平坦な道を歩いた。そうしてなんとか田村さんの自宅の前まではたどり着き、式台の上で深呼吸をする。よし、と息を吐くついでに呟いて、遠くで僕の恋の行く末を見守る友だちのいる方へと振り向いた。彼らが、うんうんと頷いてみせたり親指を立てたりしているのを目にして僕は、よし、と自分に気合を入れた。
 そうしていよいよ呼び鈴を鳴らそうという段になった。大丈夫、おそれるな。僕とて男の端くれである。ピンポンと鳴らせば田村さんがハーイどちら様? とインターホン越しで僕に問いかけてくるだろう。そこで僕は冷静に、しかし紳士的に名を告げればいい。それから、と僕は考えた。そして、これからどうなるのであろうか、どうすればいいのだろうか。と心が乱れつつあるのを感じて僕は踵を返し、優しく迎え入れてくれる子像のもとへと引き返しはじめていた。
 そのような愚行をひとしきり繰り返していたらば夜が差し迫ってきた。これでは不審者と思われてもしかたがない。僕が中学生でなければとっくに事案として通報されていたかもしれない。田村家と交友のあるご近所の誰だかが、玄関先に妙におどおどとした少年がいるとすでに一報を伝えてあるかもしれない。せっかくの機会を僕はみすみす逃してしまうのか。何があやかるのも一興だ、かっこつけやがって、と思うのも束の間、やっと吹っ切れたのか気づけば僕は、田村さん家の呼び鈴を指で触れていた。
 ピンポーン。はい、どちらさま? ここまでは想定どおりであった。ここで名を告げる。これも順調。問題は次だった。ええっと、と僕が口ごもっていると、インターホン越しの田村さんと思われる人物が言った。「お姉ちゃんの友だちですか? ちょっと待っててくださいね」
 どうやら田村さんの妹さんであったらしかったが、流石と言うべきか、才色兼備なお姉さまの妹だけあって話が早い。僕は、妹さんに言われるがままドアの前に立ち尽くしていた。すると再びインターホン越しから僕に話しかけてくる声がした。
「何かご用ですか?」
 その絹のようにさらりとした声の主は、確かに僕が須臾も忘れず恋焦がれている田村さんのものであった。
 嗚呼! 僕は思わず感嘆。ここまで来たからにはもう後戻りはできぬ。インターホン越しではあったが田村さんがどのような表情で僕と向かいあっているのかは容易に想像ができた。無表情。おそらく彼女は、私今、妖精が見えてしまっているのだけれども、自分が妖精の存在を認識してしていると当の妖精には悟られてはいけないような気がする、悟られ目が合ったが最後、口封じに食い殺されてしまうに違いないわ、といった無表情で僕と対峙しているであろう。業。即ち彼女は、僕が一瞥を繰り返していた昼下がりと同じような状況に置かれているということであった。
 推測でしかないが、実のところ田村さんには、久しぶりに登校した中学校にて自分をなんどもチラチラと見てくる僕の姿が見えていた。しかし彼女は素知らぬ顔で凜然としていた。なぜなら僕の存在を認識していると僕に悟られてはいけないような気がしていたからである。食い殺されちゃう。と彼女は身の危険を感じていたのだ。だから無表情であったのだ。
 安心をし。とって食いやしない。そんな僕の想いもつゆ知らず、それでも彼女が無の境地にあるのであれば、僕が、僕こそが田村さんを笑顔にさせられる唯一の存在に、唯一の王子様になればいいのではないか。そう、そのとおりなのである。僕にとってのお姫様が田村さんであるように、田村さんにとっての王子様は僕なのだ。だから、これまでノートに紡いできたポエムのようなロマンチックな言葉を伝えればいいのである。
 では、どういったポエミーな言葉を選ぶべきか。考えている暇はない。なぜならインターホン越しに無表情の田村さんがいるからである。お姫様を待たせておかんむりにさせてしまっては身もふたもない。だからなるべくシンプルなポエムから厳選をし、それを更にシンプルにして思いの丈を伝えよう。たとえば以下のようなポエムである。

「君はなんだか最近僕につれないね/いったいぜんたいどうしちまったんだい/黙ってちゃわからないと言うとでも思ったかい/そんなこたないぜ/だって僕は君を愛してる」
「カラスがスズメに恋をした/僕がカラスで君は君/カエルがヘビに恋をした/僕がカエルで君は君/カトウくんがサトウさんに恋をした/僕がカトウで君は君/シュガーシュガー/シュガーシュガー/砂糖に加糖でフォーリンラブ」
「絶望/それは漆黒の闇からの使者/相思相愛だなと悪戯電話/希望/それは光/好機到来さながら俺の淡い期待/夜の帳がおりて絶望していた俺をおまえは救ってくれたね/国語の会話を家でしようって捨てた時計/なんでも相談フリーダイヤル0120/110でも119でもなく0120/おまえは恋のフリーダイヤル0120」

 どれもこれも捨てがたい珠玉のポエムであるがゆえに僕は悩んだ。しかしそんな暇はない。なぜならインターホン越しにいる無表情の田村さんをこれ以上待たせるわけにはいかないからである。あたふたしている場合ではないのだ。
 ところが僕は、あたふたしていた。あたふたするあまりインターホン越しに、すすすすす、と歯の隙間を通る息を吹きかけていた。僕のポエムにそのような書き出しのものはない。そんなことはわかっている。わかっているけれどもこの焦燥。しかしやはりそうしてばかりもいられないので、その吹きかけた息に乗せて、すすすすす、「すきです。つきあってください」と云った。
「いいえ、結構です」
 それが田村さんの答えであった。間髪入れずに、いいえ、結構です。その言葉を反芻しながら僕は、友だちのいる方向へゆらゆらと歩いた。僕は恋に敗れたのだ。

 敗因は僕にあった。
 というのも、僕はまず好きな人にする挨拶からしてできないからである。好きだからこそ挨拶ができないというのは一見、何だか照れ臭くてできないといった可愛らしい理由ではあるのだけれども、僕の場合、それに加えて情けないことにたかが挨拶をする勇気がなく、嫌われたらどうしようといった己が保身があった。
 そんな挨拶すらまともにできない僕が着目したのは、「好きです」と伝えるためにはまずどうやって親しくなれば良いのかと思索することではなく、「好きです」と言うにはどうやって己の泣いているピュアなハートを鼓舞すれば良いのかといった点だったのである。
 とどのつまりは一方的な求愛であった。努力の方向が違ったのである。親しくなれる保障も勇気もないから、ほぼ面識がないと言っても差し支えがないけれど「好きです」と伝えられさえすればそれで良いんだよ、というのが僕のとった姿勢であった。
 そんなわきゃないのだ。伝えた上で付き合いたいに決まっている。しかしそうやって工程をすっとばした結果、僕はフラれてしまった。そりゃフラれる。当たり前だ。挨拶すらしたことのない、たまたま同じ教室にいた、ただのクラスメイトだったのだから。

 大人になった今、「やあベイビー、君を助けたい」と泣いていた僕のピュアなハートはもうどこにもない。穢れたハートが「やあベイビー、君に助けられたい」と尻尾を振って鳴いているだけである。


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