何かを手に入れるよりも、何かを手放すことを楽しめるようになることについて
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若い頃、まあ10代から30代の前半くらいまでは「何かを手に入れること」が楽しいことで、幸せなこと、目指すべきことみたいに考えて生きていた。
だから欲しいものがあればとにかく買っていたし、何かを手に入れて、自分のものにするというのか「所有すること」に喜びとか、楽しみを感じていたように思う。
とはいえ、いつの間にか何かを手に入れることだったり、所有することが「自分にとって」楽しいことなのか、幸せなことなのかわからなくなってしまった。
まあ、みんながみんなそうではないだろうけれど、僕の場合は楽しいから、幸せだから何かを手に入れるというよりも、仕事でストレスをためてそれをまぎらわせるというのか、発散させるために何かを買うということを繰り返していた時があった。
それこそメンタルを壊した頃が、そういうストレスもピークだったし、そのストレスをなんとかするために、まとまったお金がないのにクレジットカードで分割払いで何十万するギターとか高額なものを買っては、それに満足するのも一瞬で、また次の何かを買うということを続けていたし、今思うとその時の自分はもはや自分でないというのか、かなりギリギリのところまで来ていたのだとわかる。
そうやって、やりたくもない仕事でストレスをためつづけ、そのストレスをなんとかするために何かを手に入れて、とはいえそうなるとお金がなくなるからやりたくない仕事を続けて、またストレスをためつづけという、負の無限ループみたいなところにいつの間にかはまりこんでいた。
なので「このままだとさすがにマズい」と心と体が判断したのか、あるいは目に見えない何かがはたらいたのかはよくわからないけれど、僕は強制終了というのか適応障害という形で、頭では「仕事に行かなきゃ」と思っているのに、体がテコでも動かないという、自分でも何がどうなっているのかわからないことを人生で初めて体験した。
その頃は「もういっそ、すうっとこの世界から消えたら、もしくはそもそも自分が存在していなかったことになったらどんなにラクだろう」と、奥さんと子どもがいるとわかっていても、そう思ってしまうくらいに精神的に追い詰められていて、その時に僕が欲しいと本気で望んだものというのはただただ「心の平穏」だった。
そこから、これまでの自分とは全く違う自分になったくらいに考え方が変わり、行動も変わり、ライフスタイルも大きく変わっていった。
持っていたものはほとんど全てを手放し、そうすると今度はこれまで持っていた固定観念というのか、常識、普通、「こうあらねばならない」というものもちょっとずつ手放していったし、それでも困ることがないということにも気づいた。
そうしていると心も体も身軽になる楽しさに気づいて、それからは何かを手に入れることよりも、「これも手放せるかな?」みたいに物質的なことであれ物質的でないことでも何かを手放すことを楽しめるようになってきた。
なんというか「これは手放せないだろうなあ」とずっと思っていたものが、ある時にふと「あれ、なくても大丈夫かもしれない」と感じて手放してみてやっぱり大丈夫だったという瞬間が、今はなんとも楽しい。
まあ人によっては大丈夫か?と思われるくらい僕は考えや行動が極端だったりするけれど、確かなことは何かをたくさん手に入れていた時よりも、何かをたくさん手放した今の方がとてもとても幸せだということである。
大事なことはみんながとか、一般的にはどうこうということではなくて「自分が何に幸せや喜びを感じるか?」ということであるし、その答えも実は自分は、ちゃんと知っているということにも気づいた。
これまでは世間からはみ出すというのか、まわりの人たちと違う生き方をしていることに不安というのか、どう思われているかな?みたいな気持ちもあった。
けれど、今ならそういう気持ちでさえも手放して、他の誰でもない「自分だけの生き方」をしていけるし、そもそも人にはそれぞれの「自分だけの生き方」があるのだろうし、それがこれからはできるようになる世界になっていくと、直感でしかないけれどそう思っている。