見出し画像

ゴジラ −1.0

ポップコーンは買わない。vol.144

ゴジラと僕

劇場でゴジラを観た記憶でいうと、シン・ゴジラは実は観ていなくて、かなり遡って、小学生のときだったかな。
「ゴジラ FINAL WARS」
いまだにノベルティのゴジラの起き上がり小法師がうちにある。
本作はゴジラ生誕50周年作品であり、ゴジラシリーズの最終作と銘打たれた。ゴジラシリーズ自体はその後も制作されているが、ミニチュアや着ぐるみを多用した東宝特撮としては、本作品が最終作となった。(出典:wiki)
らしいです。

記憶の中では、ゴジラVSモスラとか、ゴジラVSメカゴジラをビデオで借りて観てたなぁ。何が好きでゴジラを観ていたかと言われると明確な理由は持ってなかったと思うが、潜在的な感情から掻き立てられる何かがあったのだろうかと推測するが、表に出すことはなくとも心の中では興奮していた気もする。

検索したら面白かったので転載。

怪獣というものは、昭和30年代以降生まれの男なら必ずくぐる「男の子の門」だと思っています。彼らが怪獣を好きになる理由は、男が生来的に持つ「攻撃性」「破壊性」といったものを昇華させ、見ることでカタルシス(浄化作用)を感じるからだと思っています
怪獣がない時代にその役割を果たしたのがプロレスです。女性から見ると暴力的にしか見えないプロレスも、当時視聴率は常に50%。男性ならほとんど全員が見ていました。
当時プロレスは「普段おとなしい男性ほどよく見る」と言われていましたが、怪獣もそれとよく似ています。子ども時代の私などは今と大違いで、「そこでじっとして」と言われたら10分でもじっとできる子どもでした。だからこそ、怪獣が大好きになったのかもしれません。

旧作を経た上で満を持しての最終作品を観たことで、なんとなく自分の中で、ゴジラとは区切りがついていた。

その後も、ハリウッド版、アニメ版と公開されていったけど何かが違う。そういった中で、シン・ゴジラは個人的にはスマッシュヒットするゴジラ体験であったことを覚えている。

シン・ゴジラがもたらした原体験

シン・ゴジラは先述のファイナルウォーズ以来、12年ぶりとなる国内ゴジラ作品。脚本、総監督は庵野秀明。監督は樋口真嗣がつとめた。

スタッフは庵野組ではお馴染みのメンバーに加えて、モーションキャプチャでは野村萬斎(本人は作品に登場しない)が起用されるなど、力の入った作品であることは製作陣を見るだけで明らかだった。

ファイナルウォーズでは演者と怪獣のオールスター戦のような感じで興奮していたのだが、シン・ゴジラに関してはスタッフを眺めてるだけで興奮してきてしまう。子供から大人になったことを実感する瞬間でもあった。

内容も、ゴジラを軸にした日本全体の話で、東日本大震災をモチーフとしたとも言われていて、甚大な被害をもたらす天災への政府の対応、外交のリアルを滑稽かつ、シリアスに描いた作品だと思っている。

子供心からするともっとゴジラ出てきてほしい。怪獣と闘ってほしかった。的な要素はどこかにあったのだが、大人心からすると現実とのリンクと虚構(ゴジラ)自体の豪華さ、恐怖、それは現実の天災にも通ずる部分があるとは思うのだが、虚構ではあるんだれども実際に起こるかもしれないという恐怖の感情はグッと引き込まれる要素の一つだったように感じる。

ゴジラ(1954)

シン・ゴジラを経て、第一作を観たことがない、つまり原点を知らないことに気づかされ、慌てて配信で観た。

1954年に公開された「ゴジラ」
特撮技術はウルトラマンでお馴染みの神様、円谷英二。
脚本は村田武雄、音楽を伊福部昭が担当。

当時社会問題になっていたビキニ環礁での水爆実験から着想を得て製作されたと言われている。

「核」と言う点でいうと、シン・ゴジラの背景でも大震災直後の原発事故は核がもたらした災害、人災といってもいいだろう。
水爆実験も人がもたらした人災と言える。シン・ゴジラの中でも最終的には核兵器でゴジラを駆逐しようとやりとりをする場面が出てくる。

人間が生み出した核から生み出された怪獣を人間の手によって駆逐しようとするなんとも身勝手な人間の滑稽さが笑えてしまうのはなんともはや皮肉なことである。

その後は子供の娯楽としての要素が強くなっていくのだが、その時期を経て改めて原点に立ち返ったシン・ゴジラは私たちの世代がリアルタイムで体験するゴジラ映画としてはエポックメイキングな作品で、ゴジラの長い歴史においては2つ目の原点が聳え立ったと思っている。

ここからが本題

前置き長すぎ笑

ここからはゴジラ-1.0。

個人的には、公開前とても不安だった。ファンも多い中でシン・ゴジラ
の後のゴジラ映画ってなにをどう描くのか、そういう路線で行くのかとか続いていくのかなど考えた上で、どうなっていくんだろうと思っていた。

いろんな不安がある中で観たということもあって、正直あまり好きではなかった。

物語は戦後の日本がベースにあって、そこにゴジラがやってきて、0だった日本がマイナスになってしまう的なこと。

アカデミー賞の視覚効果賞を受賞したのはものすごいことだなと思う一方で、技術の凄さが先行しすぎてしまい、ゴジラそのものの意義みたいなものが薄れてしまったように感じた。それもそのはず、シン・ゴジラという原点がある上での後作なのだから切り口を変えないといけないのは間違いない。

海でゴジラと対決する場面なんかは、ジョーズそのものというか、古典のモチーフをトレースすることでエンタメにわかりやすくエンタメ方向に持っていったのかなとか、最終的にゴジラを駆逐する作戦会議の場だったり、作戦実行の様子なんかは1954年版を彷彿とさせる感じが個人的には好きだった。

あとは戦争の時の死を良しとする思想が帰還兵の主人公の蟠りとなっている部分が最後の回収される感じもエンタメとしてはよかったと思った。

シン・ゴジラでもよく出てくるのが、戦闘機や戦車など、-1.0でも実際にあったものかどうかはわからないがいろんな機体が出てきて、わちゃわちゃしていた。笑
後日、特撮や戦闘機に詳しい友達に聞いたらいろんな話を聞かせてもらったのだがほとんど覚えていない。笑

山崎監督もきっと何かしらマニアに属されている方だと思うので、いろんな場面でのディティールの細かさにこだわりがいっぱいあると思うんだ。
そういう細部に宿る神みたいなものが個人的にはグッとくるポイントでもあって。それは庵野さんや宮崎駿さんにも言えることなのだが、自分ではよくわからなくても本人たちが楽しそうに語っていたり、第三者が熱心に解説している様子が好きで、それがあることでより作品に深みが出てくると思うし、彼らの作品に限らず、アニメや特撮などには表面では掬いきれない魅力が詰まっていると思う。

日本においてゴジラの映画を作ることのハードルがシン・ゴジラ以降どんどん上がっている。本作の成功も踏まえて。

だからこそハリウッド版のゴジラはこれまでの日本がやってきた対決方式に振っている。今度またキングコングと戦うみたい。笑

海外と日本とでゴジラ作品の製作構図が二極化しているのは面白い。
海外は今後、対決方式でいろんな角度から作っていくのかもしれないし、日本は日本で、日本のアイデンティティに近いゴジラ作品が作られていくのかなとも思いつつ、いろんな意味で期待が膨らんでいく。

最後に

個人的なゴジラの体験から、シン・ゴジラ、-1.0と述べてきたが、長い歴史でいろんな作品が作られた中で、再びこれだけの興行的な成功おさめる作品をつくることができたのはすごいことだなと思いつつ、ゴジラそのもののポテンシャルの高さにも改めて気付かされた。

今後東宝がゴジラをどのように展開していくかが楽しみ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?