眠れない夜に効く、仏さまの話【第一夜】 予期せぬ新たな不安のなかで
仏教徒ではなくても、眠る前に仏教に触れて、心を落ち着かせてから眠る。そんな人々を「ナイトスタンド・ブディスト」と呼びますが、近年、このような習慣を持つ人が増えています。浄土真宗本願寺派髙願寺の宮本義宣住職が、モヤモヤを抱えて眠れない夜に、仏さまのお話をお届けします。
いま、私たちはどんな生活を送ればいいのか
ご法事のおつとめを終えたあと、「ひとつお尋ねしていいですか」と尋ねられたことがありました。「いまのコロナ禍のなかで、どのような生活を送ればよいのでしょうか。何か対処をした方がいいのでしょうか。じっと我慢していた方がいいのでしょうか。仏教ではどのように教えてくれますか」と聞かれたことがありました。
その方が最初にお寺を訪ねてきたときは、年回法要のご相談でしたが、私の最初の印象は、とても快活で聡明な感じの方でした。しかし、そのときはマスクをしていて、表情はわかりにくかったのですが、とても疲れているような様子でした。予期せぬ、突然の生活の変化を迫られ、出口が見えない、答えが見つからないような出来事が起こり、不安のなかで生活している方が少なからずおられるのだと思いました。そのとき、私も明確な答えを持っているわけではありませんがヒントになればと、お話しました。
人間は、つい二元的に物事を解釈してしまう
作家で精神科医の帚木蓬生(ははきぎほうせい)先生が、ネガティブ・ケイパビリティという能力の必要性を提言しているのですが、とお話をしはじめると、その方も、その本読みましたとおっしゃったのです。
帚木先生は、著書の冒頭で、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようがない事態に耐える能力」と説明されています。「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」とも書かれています。
私たちは、仕事や日々の生活の中で、問題が起これば迅速に対処し解決していくことが求められ、常にその能力が求められているように思います。しかし、その裏返しの能力こそ、いまのコロナ禍の状況の中で必要なのではないか。「論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力」を呼び覚ましてみることが大事ではないかと言われているのだと思います。答えを求めず、急がず、焦らず、そのままでいいんですよと教えてくれているのでしょう。
私たちは、常に、良いか悪いか、正しいか誤りか、好きか嫌いか、二元的に物事を考え、判断しているように思えます。しかし、良いとも悪いとも、正しいのか悪いのか、決められず判断できないこと、答えを容易に見つけられないことが、時々にわが身にふりかかり、身の回りに起こることがあります。そんなとき、わたしたちはどのように対処しようとするのでしょうか。
人は、分からないままでいることにとても不安になります。ですから、なんとか分かろうとします。しかし、分かることばかりではないのです。分からないことは、分からないままでいいといわれることで、少し楽になれるのだと思います。
宙ぶらりんの状態でも、焦らなくていい
歎異抄(たんにしょう)の一節を思い浮かべます。お弟子の唯円房(ゆいえんぼう)が親鸞さまに尋ねるのです。「念仏をとなえても喜ぶ心がおきませんし、早くお浄土に行きたいという心もおこりません」。すると、親鸞さまは、「唯円房、おまえもか」と共感をもって受け止められたのです。親鸞さまが、そうだよね、私もだよと、答えを求めず、急がず、焦らずにいていいよと言ってくださったことが唯円房の気持ちをホッとさせ、安心をあたえてくださったのではないでしょうか。
ネガティブ・ケイパビリティという能力は、だれもが持ち得る能力ですが、これまで真逆の能力こそ重要であると教えられ、一生懸命がんばって生活してきた私たちには、なかなか気づけないでいた能力だったのでしょう。いまだコロナ禍の不安な生活の中で、宙ぶらりんな状態のままでいられることを許されていくことに、安堵していける人も多いのではないでしょうか。
参考
『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』帚木蓬生著 朝日選書
宮本 義宣(みやもと・ぎせん)
1962年川崎市生まれ。大学卒業後、企業で広告デザインの仕事に就く。その後、結婚を機に自坊のお寺に戻り、2005年に浄土真宗本願寺派髙願寺住職を継職。武蔵野大学通信学部講師、東京仏教学院講師などを務める。
※本記事は『築地本願寺新報』7月号に掲載された記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。