言葉と美術
海の妖精に恋する一つ目巨人(キュクロプス)を描いたオディロン・ルドン『キュクロプス』。妖精を見つめる優しい眼が印象的な、ルドンの代表作のひとつです。
数年前にこの絵をを初めて見た時、私は、「これ、知ってる」と思いました。女性を見つめる幼い目や、それに背を向けて寝そべる女性、左側中央に描かれた紫色の花(花ではないかも知れませんが)、不器用な印象をも受ける荒削りなタッチなどに、既視感を覚えたのです。
謎の既視感の正体は、和歌でした。『万葉集』にある一首の挽歌(死を悲しむ歌)から受けた印象と、ルドンの絵からのそれがよく似ていたのです。
(意訳)
亡き妻へ。
愛しい愛しいあなたがいなくなってしまうなんてことは決してないだろうと、喧嘩した夜、山菅の葉のように背を向け合って眠ったことが今、悔やまれます。
どうしてこの和歌と絵画とが結びついたのか、最初は不思議に思ったのですが、丁寧に考えてみたら、ひとつひとつの要素にちゃんと理由があることが分かりました。
まず最初は「紫」です。
「そがひ」(背中合わせ)の枕詞として詠まれている「山菅」(やますげ)がどの植物を指すのか、明確には分かっていないそうですが、一説にはヤブランの古名と言われています。放射状に出る山菅の葉に寄せて、「背中合わせ」が導き出されるそう。
この歌に出会った日、ネットで「ヤブラン」を検索してみると、画面いっぱいに紫色の花が表示されました。稲穂状に花をつけるヤブランと、絵の左側中央を彩る、花の群衆のように見える紫色の筋がよく似ています。
二つ目は、「背を向けて寝そべる女性」です。
言葉を足すまでもないと思いますが、背中合わせに眠った夫婦と、巨人に対して背を向ける格好で横たわる妖精という共通点があります。
三つ目は、「死の影」です。
ギリシア神話に語られるキュクロプスは、ルドンの絵から受ける印象よりもずっと、ずっと獰猛です。実に、妖精の恋人であった男を、投げつけた岩で殺してしまっているのです。
ルドンの描いたキュクロプスは無垢な優しい眼をしていますが、そこには、アリを捻り潰す子どものような、純粋ゆえの残忍さをも宿しているのかも知れません。そしてその獣性は、おどろおどろしくもある空色や草花に伝播し、絵画全体に表れているようです。
亡くなった妻への思いを詠んだ万葉歌と共に、どちらも死の影をまとった悲哀な雰囲気に包まれています。
そして最後に、「不器用さ」です。
これは、新古今集歌などのスーパー洗練された和歌の存在を知った上での私の印象ですが、この挽歌からは、初句の「かなし妹」や句末の「悔しも」など、言葉の端々から、プリミティブな香りをばしばしと感じます。万葉的な言葉遣いというだけで、ちょっと不器用で実直、みたいなフィルターがかかってしまうのです。現代の若者が、少し昔のアニメやゲームに感じるのと似た感覚かも知れません。
ルドンの、自然を描いた荒っぽいタッチと巨人の不器用そうな幼い眼が、おそらくこの和歌を想起させたのです。
こんなかんじ。
簡単にまとめると、背を向けて寝そべる女性と彼女を愛おしむ優しい眼差し、そして哀愁。です。
私とは当然違った感覚を持つ方々に、この理屈っぽい文章でどこまで伝わるのか、まるで想像がつきませんが、これが私の伝える力の精一杯です。。
絵画が神話を拠り所とするように、長歌と反歌が一体であるように、一枚の西洋絵画と日本の古歌がぴったりと合わさったのはこれが初めてで、とっても不思議な体験でした。そしてこの不思議な体験を紐解いた時に、ようやく、芸術分野のなんちゃら主義かんちゃら主義が、絵画から建築、文学、はたまた音楽にまで及ぶわけが、理解できたのでした。
同じように結び付けられる組み合わせが、他にいくつもあるわけではないですが。
和歌と西洋絵画とが影響を与え合っているわけがないけれど、韻文学へのまなざしの一つとして、市民権を得たらいいのになあ、と思う一匹のえりんぎです。