「神は死んだ」的写真観(戯言)
あなたの写真は意味がありますか?
写真である理由、写真でなければならない理由はありますか?
そんなお話し。
※戯言です
「神は死んだ」
言わずと知れたニーチェの「虚無主義(=ニヒリズム)」を表す代表的なフレーズの一つ。
一つ注意すると私はニーチェについてなーんにも知らないということだけ。
「神は死んだ」の言わんとしているところは
・近代化、産業化に伴う宗教的・哲学的観念の滅亡
・人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがない
と、ここでは解釈して話を進めます。
ただ前者の方は本筋とは関係ないものになっていくというか、キャッチーさを求めてタイトル付けただけなので後者に絞って行きましょう。
つまるところ「ニヒリズム的思考の写真観」が今回の真のテーマです。
ニヒリズム的思考の写真観
思いっきりWikipediaに頼っていくスタイルでニヒリズムの理解を進めます。
現代におけるニヒリズムのカテゴリについて5つ挙げられているので、2つ抜粋。
人間の認識はバイアスや認知の歪みによって正確に捉えられておらず、また先入観や倫理・道徳観によっても修正がなされます。
また人間の存在自体も究極的には無意味であるという立場も取ります。
これを写真に転化すると、「あらゆる写真は現実を歪めて捉えられた像であり、切り取り方も撮影者の恣意性があり、かつ存在自体も人間に依存しており無意味」と拡大解釈できます。
ここで、「写真」という語の愚かさについて触れましょう。
「写真」という語の愚かさ~単語に認識を振り回されすぎじゃないか論~
誰が言いだしたか、「真実を写すと書いて写真」。
当時としては絵と比較すると真実を写していることになっていると捉えられたのでしょう。
確かにそうですが、実際のところレンズという光学装置は光の軌道を歪めて結像させるのであって、その像は真実ではありません。
その点、英語のphotographは正確でしょう。
光+記録するの合成語ですから、装置自体の説明としては適しています。
こと日本語における写真の説明や認識において、「写真」という語に引っ張られすぎている嫌いは大いにあると考えています。
写真は真実を写してはいません。
完全に蛇足ですが、「カメラマン」「写真家」「フォトグラファー」の語の定義も本当に語の形成うんぬんで色々言われてて面倒だなぁと日々思っています。
美しい日本語、たとえば「木漏れ日」や「いただきます・ごちそうさま」など、日本の文化的背景に根ざした言葉はあるんですけどね。
ここで言いたいのは、単語にあてがわれた漢字はあてがった人物の恣意性があるのであって、そこに何か確たる根拠のようなものってなくて、字面に囚われすぎない方がいいのでは?という提案。
「写真」は「真実を写す」ではないし、「写真家」も「茶道家」のような家元制の立派な職業とは限らず名乗ればそうなれるもんだし。
アウトプットとしての写真の無意味性
アートを色々見ていると、こう考えることが少なくありません。
「写真である理由って何だろう」と。
デジタルカメラが普及した現在、その生成物は撮影の生データ(RAW)、ないし現像後の画像データになります。
この画像データ、つまりjpegやpngなどのデータフォーマットは、他のイラストや図表と同じ形式として保存されます。
コンピュータ上ではexifという内部的な情報は付加されているものの、表示するだけであればいかなるフォーマットであろうと同一なものとして扱われる訳です。
それはRGB(pngの場合はαチャネルも)のレイヤーで構成され、3色の重ね合わせによって0~255^3の16,777,216階調を表現するというだけの情報として保存されているだけに過ぎません。
描かれたツールとしてのカメラ・ペンタブレットなどはあるのかもしれません。
しかしAIの登場によって、プロンプトグラフ(promptgraph)のような概念が生まれてきて、写真の現像・編集ツールにもAIが搭載されるようになってきた今。
果たして写真~生成AI~デジタルイラスト・絵画の間に、明確な垣根を設けることはできるのでしょうか、という問題提起。
私のいち意見としては「そんなもの立てたとてグラデーションであって無意味」というニヒリズム的論。
極論ですが。
画像データというのは、複製が可能です。
それはゼロの状態からでも、元のデータを参照して1ピクセルずつ同じ値になるよう画像を生成していくと、コピーであって生成であってというモノが生成できるわけです。
また加工も簡単ですから、あたかもイラストチックにすることも、デジタル写真をフィルムライクにすることも、容易なのです。
「これは写真です」という主張は、「それは現実を写しているのか?」という語に基づく反論にも、「それはプロンプトグラフとどう違うのか?」という主張にも晒されうる、と。
でも反例を考えることはできます。
例えば絵画を絵画たらしめているのは「絵という実体」です。
これを写真に置き換えるなら、フィルムやプリント、とくにフィルムカメラで撮影された作品については、写真独特のもの、かつ写真である理由と言えるでしょう。
ただしスキャンしてデジタルデータにしたら最後、上の論に巻き込まれるのです。
全ては無意味で無価値……とはならんやろ
もっと暴論。
ありとあらゆる創作活動は、無意味。
宇宙人が地球に来たとしましょう。
人間が生きている間でも、文明が滅んだ後でもいいでしょう。
その宇宙人が人類の創作物を見て、何かを理解できるのでしょうか。
ってのは極端が過ぎます。
写真には有名な事例があります。
ヴィヴィアン・マイヤー。
彼女はアマチュアのフォトグラファーです。
シッターの仕事をしながら、純然たる趣味として、スナップやセルフポートレートを撮影し、数万枚にも及ぶネガを残しました。
彼女の没後、Web上に公開されたりオークションにかけられたりなどされ、世にその活動の全貌が知れ渡ります。
彼女が評価された要因は、複数が複雑に絡み合った結果と考えています。
没するまで大々的には公開されなかった点、当時の日常が大量に残されていた点、エピソード込みで魅力的であった点。
なんにせよ、ひっそりと続けられた彼女の活動は、ビジネス的な戦略はあれど没後意味も価値も付与されたのでした。
そう。
意味も価値も、人間の恣意性によって”付与”されるのです。
無意味で無価値と断じることも、意味も価値もあると評価することも、全て人間の無意味で無価値な恣意性によって踊らされているにすぎません。
photographに写真と熟語をあてがうことも、誰かのために大切な写真を撮ることも、全て同列で、全て任意の意味と価値を見出していい。
戯言ですね。
結論:じゃあ”写真である理由”ってなんだ
これは写真を撮る人間が、恣意的にテーマとして掲げていいのでしょう。
いちゃもん付けてくるギャラリーストーカーのような人間がいるかもしれないけど。
ちなみに私はちゃんと明言できるに至ってはいないですけど。
「カメラである理由」なら、役者さんの拘束時間を最小限に抑えて、その素晴らしさを作品にできるから。
でも「写真である理由」になると、いや油絵でも水彩でも彫刻でも、映像でもええやんってなる。
究極、それでやってきたから、という回答にしかならないし、理由を作るために他の手法に乗り換えることもしない。
だからこそ文章にしてツラツラよくわからんことを書き続けてきたわけで。
自分のなかにも、もしかしたら写真である必要が、意味が、理由が、存在するのかもしれないという希望を、開けられたパンドラの箱に追い求めている、と。
今も「シャワー浴びなきゃな、明日仕事だしな」と思いながらキーボード叩いて、「サクッと終わらせるつもりが3,000字超えちゃったよまったく」なんて考えてるんですよ。
まぁ、役者さん表現者さんに何か還元できているのなら、写真でよかったなって思えてるし。
それでいいよね。
おわり。
写真展に参加します
よろしくお願いしますーーーーー。