朝霧|掌編小説(#シロクマ文芸部)
――霧の朝は外に出るな。
それが小さい頃に住んでいた町の、掟のようなものだった。霧のせいで学校や会社に遅刻しても、許されるくらいに。
四方を山に囲まれた小さな町は、霧なんて朝晩問わずよく出ていた。「霧の朝は外に出るな」というのは、単純に、視界が悪くて危ないからだと思っていたが、それが違うと知ったのは、高校生の時。
部活の朝連で、朝の6時前に家を出ようとした時、外にはうっすらと霧が出ていた。さっきまでは霧なんて全く出ていなかったのに、変だなぁと思いながらも、天気は晴れだし、そんなに深い霧ではなさそうなので、構わずに自転車に跨った。
念のためノロノロ運転で、5分くらい走った時、右前方に人影が見えた。
――ちょっ!? 誰!?
驚いて自転車を止め、人影の方を凝視した。霧のせいでよく見えないが、確かに人で、こちらを向いて立っている。
「しょうちゃん!」
僕は自転車を押して、しょうちゃんの元に駆け寄る。
「無事だったのか! よかった!」
先週の日曜日から行方が分からなくなっていた、クラスメイトの翔太郎だった。日帰り登山で近くの山に行ったきり連絡がつかなくなってしまい、両親が警察に捜索願を出していた。しかし、警察、消防隊、地元の消防団など、総勢70人を超える大捜索を行ったにもかかわらず、しょうちゃんどころか、手掛かり一つ見つけられなかった。
「どこに行ってたんだよ。みんな心配してたんだぞ?」
しょうちゃんは何も喋らず、ただニコニコしながら頷くだけだった。パッと見た感じ、服は汚れてないし、怪我もしてなさそうだ。
「こんなところにいないで、すぐに帰れよな? あで家に行くから―!」
僕はそう言い残し、思いっきり自転車をこいで学校に向かった。
「しょうちゃんが戻って来たよ!」
クラスのみんなにそう言うと、みんなは安堵の表情を浮かべた。
「ンだよー。生きてたのかよー」
「家出してたんじゃないの?」
「自分探しの旅ってやつだぜ、きっと」
無事に戻って来たと知り、今までの心配を吹き飛ばすように、口々にそう言い合った。
「大原、ちょっといいか?」
放課後、帰り支度をしていた僕を、担任の先生が呼び止めた。
「職員室まで来い」
「あの……何でしょうか?」
先生の背中に問いかけるが、そんな僕を完全に無視して、先生は職員室の隣の部屋に入った。僕に「早く入れ」とぶっきらぼうに言い放つ。
「翔太郎を見たって?」
「はい。今朝、家から出てすぐに」
「そうか……」
先生は腕を組んで目を閉じ、「うーん……」と何かを考える仕草をした。少しずつイライラが増してくる。
「今朝、霧が出てなかったか?」
「あー、霧というよりは、モヤみたいな感じだったし、大丈夫かなって」
「俺の住んでるところには、霧もモヤも、全くと言っていいほど出てなかったんだが」
状況が全く飲み込めない僕のイライラは、ついに限界を迎えた。
「先生、一体何だって言うんですか? これからしょうちゃんの家に――」
「翔太郎は見つかったよ。遺体でな」
僕は「はい?」と間抜けな声を出し、そのまま固まった。頭の中が真っ白になる。
「いやでも、僕はしょうちゃんに……」
上手く喋れず、必死で言葉を絞り出す。そして、登校中に会ったしょうちゃんの姿を思い出した。誰が何と言おうと、あれは間違いなくしょうちゃんだった。
「霧はなぁ、幻を見せるからなぁ」
先生がボソッと呟く。それ以降のことはよく覚えていない。ただ、「この町から出て行こう」という決意は、この時に固めたと思う。
玄関を開けると、外にはうっすらと霧が出ていた。向こうから人影が近づいてくる。
「おはようございます」
「ああ、おはようございます」
同じマンションの住人だ。
あれから10年経ったが、霧の朝には、今でもあの日のことを思い出す。何も言わず、ニコニコと笑っていたしょうちゃんの顔を。
――最後に別れの挨拶をしに来た。
僕には、そうは思えない。
「苦しい……助けて」
あの笑顔の裏に、そんな断末魔の悲鳴が隠れていたような、そんな気がしてならない。
(了)
小牧幸助さんの「シロクマ文芸部」に参加しています。
専門学校時代、同じクラスで長野県出身の女子がいました。
うろ覚えですが、何かの雑談でその子が「霧が出ている時は絶対に山や暗いところに入ってはいけないと、小さい頃からきつく言われていた」みたいなことを言っていたのを思い出しました。
山は我々が思っている以上に恐ろしい場所であり、本来、遊び半分で入ってはいけない場所なのだそうです。
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