九州をまわる編【終章】
高千穂で
まず、向かったのは、高千穂のあの場所でした。
子供の頃、いまほどいろいろな情報に、世界の風景に、簡単にアクセス出来なかった時代、百科事典の中の、世界の景勝地をたくさん集めた写真の中で、ひときわ心に強く訴えてきたのが、高千穂峡の幽玄な風景でした。
車をとめて、急な階段を降りてボートに乗ったのを覚えています。
あの滝の落ちてはねる飛沫がぴかぴかと強く眩しかった。
谷底から割れた隙間に青空が覗く。
そうやってみれば、そうみえる
表現するということは、結局の所、「そうやってみれば、そう見える」にすぎません。
できるだけ「見通しの良い」場所を探して提示するのが「学問」です。
いや「芸術」もです。
本来の「宗教」もそうでありましょう。
ただ、「反対側」は「見えません」から「1箇所」から全部を「言う」ことはできません。(例えば、「実体論」)
それなら、反対側にまわらないと。(なので「関係論」。反対もそう)
しかし、
しかし、
何かを表現すると決めたなら、
表現しようとするならば、
漠然としたイメージや、
言葉の多義性に逃げ込んだり、
絶対的超越存在を持ち出したりして
安易に表現を投げ出してしまっては、
根源には辿り着けません。
表現されたものは、なんであれ、徹底して具体でしかあり得ないのです。
「あおいのきせき」は、それをしていません。
それをしないで生還した、今の所唯一の実例です。
反証不可能な言語による徹底した限界表現を可能にせしめた唯一です。
メニューは料理ではない
と言う(どなたかの)言葉の通りです。
そのことをみな忘れています。
或いは気付いていないか。
そうして、それら言葉の宿る「場」の在ることを忘れています。
時空間と意識と言葉
この三態の「かたち」で存在する何かとは何かを探っていくと、どうなるでしょうか。
物質は意識の中にあり、しかし、意識の「宿る」のは物質(脳)であります。
この入れ子構造の通りの「世界(宇宙)」と理解して「学問」を進めることで、随分と「世界の理解」は進みます。というか、言われてみて素直に観察してみれば、その通りなんです。コロンブスの卵的に。
(仮説。仮説とは?養老孟司先生はあらゆる言説が仮説であると仰っています。)
丁々発止。20年前なら今度は僕が、山のホテルで先生とお手合わせ願いたかった。
意識と物質の関係は、まるで「ルビンの壺」の「横顔」と「壺」の関係に似ています。
「意識」が「ブラックホール」を結節点にして「時空間宇宙(物質)」と繋がっているという「仮説」を採用して不都合はあるでしょうか?
あるかも知れません。「学問(科学)」が不断に「政治的」であることを訴えたのが、我が国では、主に村上陽一郎先生によって紹介されたP.K.ファイヤアーベントでした。(AI(深層学習)的に言換えますと活性化関数の決定方法を指摘するようなお話になりますでしょうか)
この大事な本がことごとく絶版になっているのは、まさか「政治」(といってもいわゆる「政治家」とか「イデオロギー」とかそういうレイヤーの話ではありません)が理由ではないと思いますが、しかし。
あおいのきせきは、20年前に周知されるべきでした。
隠蔽は数多くの悲劇を生む結果になりましたから。
天岩戸神社
「高天原(takaamahara)」の神話として有名な「聖地」に御挨拶に参上したのは、「あおいのきせき」を日本語で持ち帰った人としては、ある意味、当然だったと思います。
「史実としてのほんとう」がどうであれ、そう記憶された実在の場所を訪れたのは意味があったのだと推し量りますが、その意味すら言葉にすれば「例えば」にしかなりません。
こういう言い回しはまるで史実を軽視しているかのように聞こえますが、逆です。
史実を捻じ曲げてはいけません。
「レイヤー」が違えば「(そのランクの)正しさ」はかわる、という話をしております。
(但し、レイヤーとは無関係に存在する正しさの不在を主張している訳ではありません)
思えばキャット・ストリートは暗渠であって、僕が「あおいのきせき」を「書く事になった」場所は「渋谷(隠田)」川の「谷底」です。
高千穂も猫通りも賑やかでした。
賑やかです。
天岩戸神社ではご神職に案内をしていただき、「あの」天岩戸に、大きな岩に、対面することが叶いました。
いま、逆に、「すずめが戸を閉めてまわっている」ようですが、「たとえ話」で押していきますが、閉めてまわらないと困るのは「占めて」いた方だけだと直感するのは気のせいでしょうか。(三本足の椅子?あおいのきせきの知見の暗喩になっていますね)
「あおい」を例えば「瀬織津姫」に例えるのは、如何でしょう。
知恵は知恵を出し合って人が生きるのに資してこそであります。
そうして「あおいのきせき」は応用力現在最強な知恵であります。
つまり「見通しがよい」
如何?
女性はいったいなんの「例え」でしょう。
しかし、実在の「女性・おんな(のこ)」はたまったもんではないでしょうね。
僕の作品群は、振り返れば、そちらからの眺めでした。
いずれ、この辺りのお話も「(紛い物の)宗教を語る団体」に絡め取られずに、「学問」として語られると思います。
3月28日にアリス=紗良・オットさんの新譜がでましたよ。