ゼロとは何か
現実とゼロ、そして無、それとも空
■ゼロと実存
ゼロは「時空間(物質世界)」に実在として「ある」でしょうか。
ゼロが「ある」とするとしたら、どのように「ある」でしょう。
■点は存在しない、線も存在しない、面も存在できない。
ゼロが「1」から「1」を引いた有理数としての「ゼロ」とすれば、「ありそう」です。
しかし、「実存」としてのゼロは「無」を指示します。
無を非有と指示すれば、(ゼロを有として計算する)数学は「(私たちの認識可能な)現実世界(時空間)(物質世界)」を指示しなくなってしまいます。(有である「いわゆるこの宇宙」に非ず、を、対象にしている、ということになりますから)
「(私たちの認識可能な)現実世界(時空間)(物質世界)」には、三方の辺がゼロの立体である「点」も、2辺がゼロである立体の「線」も、そうして1辺がゼロである「面」も「非有」つまり「無」いということにしかなり得ません。
■「(私たちの認識可能な)現実世界(時空間)(物質世界)」に有るのは立体だけ
の「筈」です。なにせ認識可能な実在の空間は「3方向(3次)に変化する場」ですから。
■「近似」「微分」思考の限界
様々な角度から同じ事を繰り返し指摘させて頂いておりますが、所謂「マクロ」において数学を「(私たちの認識可能な)現実世界(時空間)(物質世界)」に適応すれば、「その通り」(のよう)に振る舞います。
自然を解釈する方法としての科学と結びついた数学は、科学技術、つまり工学的に自然の中で「人工」として機能しますし、それがいま私たちのいる世界です。(つまり「予測可能な世界」)
しかし、
それはすべて近似として有効な範囲において機能している、という「但し書き(括弧)」がつきます。(つまり、「実際の世界は予測不可能」)
「微分思考」とは即ち「非有」である「ゼロ・ポイント」を、【「ゼロ(非有)」の「近似」である「有」】は「ゼロ(非有)」である、
として、
「非有」は「有」である、
という
「但し書き(公理)」の上に成り立った「世界様式」のことです。
そうして勿論その「但し書き」は人(例えばニュートンやライプニッツ)の都合で採用したに過ぎません。
いくら強弁しようと所謂「現実世界」で「ゼロ」は相変わらず「非有」です。
「世界(宇宙)」とは「世界解釈」と一体です。というかそのものです。
厳密には、そしてこの厳密さによって、「大宇宙」は、数学を基軸にしたいわゆる「自然科学」に対して「その全容」を明らかにしてはくれないのですが、「正しさ」に「数学的概念に於いては」という「但し書き」がついてしまいます。
実在としての自然は、思考の都合に合わせた、何らの前提を要さない「筈」です。
無は無のまま、非有は非有のまま、有は有のまま、思考することが、自然です。
そして、「微積分」思考は、そうではありません。
全てを「有」として考えますし、
「無限」も「有限」として扱いますから、
「無限」と「非有」が実在する、
いわゆる「宇宙」
の姿からは乖離してしまいます。
■無と非有はイコールではない
まず是非、下リンク先考察をご参照くださいませ。
非有の反対は有です。
無の反対は非無です。
■「空」とは「非有」
そして、
すると「非有」は「空」と指示される対象が同じであると分かります。
■無くはない「非有」
無は「非有」含まれます。
有は「非無」に含まれます。
すると「ゼロ・ポイント」とはどのような「意味合いに」なるかが「見えて」きませんか。
■テトラレンマとしての「ゼロ・ポイント」
「(私たちの認識可能な)現実世界(時空間)(物質世界)」に於いて「ゼロ・ポイント」とは、
有かつ無
非有かつ非無
正に「境界」であると、これも、分かります。
ゼロの彼方、とは
■虚(数)空間は『(私たちの認識可能な)現実世界「(時)空間」(物質世界)』には無い
繰り返しますが、
「あおいのきせき」の知見から、私たちは既に、
「(私たちの認識可能な)現実世界「(時)空間」(物質世界)」つまり「いわゆる宇宙」は、
非「宇宙」と
境界(意識)を挟んで一対である、
と、知っています。
そうしてこの「宇宙」こそ「有」であり「実」である「世界」です。
非「宇宙」とは非「有」であり、それは「虚(ここでは非実と同じであると指示します)」である「場所(厳密には非場所)」と分かります。
■虚・非有がある。「どこ」に?
非「宇宙」である非「物質世界」に。
といいますか、「それ(そこ)」は「虚」そのもの。
対偶として「別の宇宙」に相互に非ず。
として無矛盾に有ります。
無、とは
■A+非A+(その)境界
有=実=時空間=この宇宙=物質(極限に於いて波)
非有=非実=非(※時)空間=非この宇宙=非物質(極限に於いて波)
■ことばを対義として「名付ける」と意味がこぼれ続ける
非有を無と名付けてしまうと「そこ」から「非有マイナス無」がこぼれて(溢れて)しまいます。
非有とは、有非ざる全てを指示した「言葉」ですから。
■時がながれる
時が流れることを、この角度から理解するとその「意味」がよく分かります。
■「相互に」あふれ出た意味を「光」と名付ける
有と非有の相互から「はみ出した(溢れた)」意味「を」(存在)として更に「光」と名付けて、さて、「あおいのきせき」の知見は何処まで所謂「すべての宇宙存在」について無矛盾で「物語」ることができるでしょうか?
■人は「どうして未だ宇宙の仕組みを説明できないのか」
「あおいのきせき」では特に第四章に於いて「説明」と「理解」という「思考・行為」についての考察を、『否定の出来ない「あおいのきせき」の知見(存在の方程式)』を基底にして積み重ねた試論を「時間論」と併せて進めていおります。
この角度からの考察(言葉の積み重ね)というものも、あまり見当たりませんので、是非、お読み頂き、ご自身の「思考体験」にご活用して頂きたく思います。
「理解」とは?
「分かる」とは?
「説明がつく」とは?
{要するに全ては「例えば(比喩)」=「物語」であると理解すれば、全ては「分かりやすく」(見通しが良く)なるのです}
■有・非有・無
「あおいのきせき」の知見(方程式)に当てはめると、「無」は境界と理解ができます。
「非有」とは、これも繰り返しになりますが、「物質」とは正反対の性質を持っていると分かります。
「有」を感覚器官(とその延長である観測機器)で認識が可能なモノ(物質及び波動)とすれば、
「非有」は感覚器官では認識不可能なモノ(非物質及び非波動)となります。
つまり「虚」として「存在」しているモノとして見回すと、「意識」がそれに相当する、と「当たりがつきます」
「意識」が「ある」事を否定する人はまず居ないと思います。
しかし、物理的、或いは「科学的」にその存在を「知る」すべもない事も周知でしょう。
「有るのに科学的な観測ができない」という相反する「事実」を理解する道筋が、「あおいのきせき」の知見によって、敷かれることに相なったという事になります。( いわば「認識論」と「存在論」の融合)
■ゼロポイントはブラック・ホール
時空間(所謂「この宇宙」)を見回すと、ゼロ・ポイントとは「ブラック・ホール」であると「当たりがつきます」
■ゼロポイント(ブラック・ホール)で全てが反転する
深層学習の文脈に拠りますと、
y=ax+b
というシンプルな関数で宇宙に「例える」ことも可能です。
「外れ値」である「b」は「√-i」であるとすると「筋」は通ります。
「ゼロ・ポイント」への「虚数」の投入につきましては以下ご参照下さいませ。
※上リンク先竹内先生の文脈に拠りますと「実在論(ぺンローズ博士)」と「実証論(ホーキング博士)」が【「あおいのきせき」の知見】に於いて、統合される、という事に相成ります。
NEXTは勿論キャットストリートから始まる
■否定できない「大前提」
「あおいのきせき」の知見こそ、
あらゆる思考の一等初めに採用しなければならない、いわば「存在の方程式」です。
いまの「思考」には、この「大原則」が全く考慮されていません。
存在において、部分と全体の関係が見落とされたまま、「学問」は果てまで細分化されて、つまり、未だ「神の方程式」の見つからない所以は、ここにあります。
■2002年10月18日にキャットストリートにて
キャット・ストリート似て書かれた「あおいのきせき」から「次の文化」は始まるのです。
■そして
非「あおいのきせき」の知見。
此方も必須です。
ヒュッパソスに捧ぐ。