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有、相対的無、絶対的無:湯浅泰雄「身体論」と中村雄二郎「問題群」

湯浅泰雄「身体論」を面白く読んでいるが、序説+3章+結論の5章構成のうち第二章 210ページまで読み終えた。注や解説を除いた本文が339ページなので61.9%まで来たことになる。2月中に読み終えるつもりでいたが、思いのほか内容が濃く、咀嚼するのに時間がかかり、まだまだ面白いところはこれからだ。「咀嚼するのに」と書いたのは消化までは至っていないからだ。


序説と結論にはさまれた3章の内容は次のとおりである。

第一章「近代日本哲学の身体観」では和辻哲郎と西田幾多郎のそれぞれの身体観について筆者の視点から解釈しなおし、東洋と西洋の知のありようを比較している。
第二章では、東洋の理論の哲学的基礎としての「修行」の考え方について、仏教の教えるところをインド、中国、日本で歴史をたどりながら比較し、道元と空海の哲学について分析している。
そして、第三章では、東洋の身体論の意味するところを現代的観点から考察される。

第三章の内容について、序説には次のように書かれている。

第三章ではまず、ベルグソンとメルロ=ポンティの哲学的心身論について、心身相関のメカニズムに関する現代生理学の実証的知識を取り入れながら考察する。そこで彼らが提出した問題点を、心身問題についてのわれわれの論点から批判的に検討しよう。さらに、心身相関のメカニズムについて実証的に研究している現代の心身医学や東洋医学その他の諸分野から得た知識に基づいて、東洋の身体論が意味することについて考えてゆくことにする。

湯浅泰雄「身体論」 p.27-28

これからがまさに面白いところなので4月末までかけるつもりでじっくりと読みたいところだ。

第一章の西田哲学についての論では、「有の場所」と「無の場所」について、それぞれに対応する「日常的自己の行為的直観」と「場所的自己における行為的直観」、意識の主体性と身体の客体性、そしてその逆転、あるいはその消滅・一体化、といったところの独特の哲学の解説がなかなかに難しく面白い。

西田哲学と空海については、そういえば、中村雄二郎の「問題群」にそれぞれ取り上げられていたな、と思い出した。第十一章の「<純粋経験>から<場所>と<行為的直観>へー三木清、西田幾多郎、ケネス・バーグほかー」第三章の「《五大にみな響きあり》あるいは<汎リズム論>ー空海、O・パス、ミンコフスキーほか」である。

上の「有」と「無」に関して言えば、「問題群」を読んでより理解が深まった気がする。中村雄二郎は「問題群」の中で、無をさらに二つにわけて、「相対的無」と「絶対的無」に分けてコンパクトに解説しているのでそこがよかった。「無」といっても、「有」に対立する「無」の場合は有ることを前提とした有の欠如としての「無」なので「相対的な無」なのだ。これに対して「絶対的な無」というのは「有」も「(相対的な)無」もない超越した状態であり、自己も自然も区別されない、身体も心も区別されない、そしてそのような場から働きかけが生じる、そのような状態であり、それは物でも心でもなく場所である、ということだと理解した。湯浅の「身体論」の「無の場所」はこのような「絶対的無の場所」である。

この「無の場所」では主体(心)が客体(もの)に働きかけるのではなく、無の場所から心が働きかけられる、心=日常的自己からの視点では主体と客体が逆転する、中村雄二郎の言葉を借りれば「主語論理」から「術語論理」になる。そして、こちらのほうが本質的な真実の姿であると考えるわけだ。つまり「場所的自己における行為的直観」のほうが本質であり、「日常的自己の行為的直観」はむしろ主客逆転しているという考えであろう。

これは、フローの状態を考えると日常でもたまに体験することだ。何かに突き動かされるように夢中になって仕事や趣味に没頭して時間がたつのも忘れてしまったという、いわゆる「フロー」の状態の間には、自分の身体や心を意識することはない。主体としての自分、そして客体としての身体や気持ちが消失してしまう状態である。そこでは主体も客体もなくなり、もっと根源的な部分から動かされているともいえよう。

「子どものころに夢中になってやっていたこと、それがあなたの本当にやりたいことなのだ」と言われたり考えたりしたことはないだろうか。

では日常的自己ではなく、本来の姿である場所的自己を取り戻すにはどうしたらよいのか。私達が自然に体得している東洋(日本)の知によれば、自己の内面に向い、身体の「修行」と心の「瞑想」なのだろう。本書「身体論」ではこの点を道元と空海に求めている。

空海については、同様に中村雄二郎「問題群」を引き合いに次週に譲りたいと思う。


ところで、本書を読んでいてもどかしさをずっと感じている。自身の論を展開するために先人の文献をその正当性の根拠とするのだが、自身の考えによる解釈をして文献を参照するので、客観的な論拠としては薄いだろう、という点だ。だから、先人のテキストの解釈の連鎖を辿って正当性が保証されるなら、さまざまな解釈がある以上、それはすなわち学派となり、誰に師事したか、誰の本を正当なものとしてきたか、によってさまざまな考えや主張が生まれてくる。どの教科書を選んで読むかによって考えや考えの枠組みさえも変わってしまう。それでは、自身が欲しいものを聖典の解釈に求めるのと変わらないのではないだろうか(*1)。このへんは、正月に読んだ柄谷行人著の「力と交換様式」でも大いに感じたもどかしさだ。

そのような状況で、私のように一般向けの教養本・解説書をあたっているだけでは、何を言えるものでもないだろう。

ならば、なるべく原典にあたることが大事とはいえ、フランス語やドイツ語の原典をカバーするのは難しく、さらに先に辿れば、ラテン語やギリシャ語、ヘブライ語など、さすがに私はあきらめざるを得ない。かといって日本語の原典にあたれる西田哲学がそれに比べて容易かというとそうはいかない。

西田幾多郎の「善の研究」は高校のころか大学のころだったか読んだことがあったはずだが、読んだという記憶のみでまったく残っていない。いずれ読むべきかと思いつつ、本書「身体論」でも難解でいろいろな解釈を許すと書かれており、また中村雄二郎「問題群」でも同様な記述があるので、躊躇している部分がある。

面白ければ楽しければ、それでいいのだろうか。答えはないが、生きているうちに答えを得ようというのがそもそも虫がいい話なのだろう。


私達はどこから来てどこへ行くのだろうか。


■関連 note 記事

有と(相対的)無とそれを超越した状態、というのはベルクソンでも読んだ。

先週の雑記帳の冒頭でフローや「主体」と「客体」など少し触れた。


■注記
(*1) ティモシー・アーチャーの転生を思い出してしまった。

書に囚われる私たちは、書を紡ぐ者が持つ生への執着に囚われ、愛する人たちの死と、そしてなにより自らの死という避けられない運命と対峙することになる。

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