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高橋昌一郎「フォン・ノイマンの哲学」

職域接種でモデルナのワクチンを打ってちょうど8日目、噂のモデルナアームが発現した。

最初の副反応は接種1日目の午後から、2日目の一日間、腕を動かすときに感じる筋肉痛状の鈍痛があるくらいで3日目にはいったん症状はなくなった。それが8日目になって、腫れて違和感あり、肩を上げたときに軽い筋肉痛状の鈍痛、赤くなり少しかゆみあり、そして少し熱っぽい。

まぁ、それは、予想の範囲内、身体の免疫系が反応して抗体をちゃんと作っているんだろうな、と思えばまぁ許せる。

先週にワクチンを接種した日、結果的にたいしたことはなかったものの、気になって仕事が手つかず、中島義道著「晩年のカント」を読了してしまった、と書いた。実は、しかも、そのうえ、勢いあまって読了後、高橋昌一郎著「フォン・ノイマンの哲学」をポチってしまい、これも一気に読了してしまった。

よっぽどひどい仕事アレルギーだったと見える。が、許してほしい。

内容紹介、フォン・ノイマンとはどういう人か、については、著者自らの note への投稿を参照されるとよいだろう。

フォン・ノイマンの一生を丹念に追っていて、もちろん、そのドラマティックできらびやかな業績の連続だけでも読ませるものがあるが、筆者特有の引き込ませる文章もリズムよく、一気に読了した。

最近の若い人にも、筆者特有の「!」が多い(*1)カジュアルな雰囲気もあって読みやすいと思う。

また、ウイグナー、チューリングやゲーデルそしてヒルベルト、マイトナーやボーア、シュレーディンガー、フェルミ、ハイゼンベルク、シラード、ファインマン、ディラック、アインシュタイン、ウイーナーなど、綺羅星のようなスター物理学者や天才数学者たちとの交流やエピソードも面白く読ませる。ディラックのファンの私は数ページのディラックのエピソードもわくわくと読んだ。

ほかに、「同じベッドに一週間以上寝ることはない」と言われる放浪の天才数学者ポール・エルデシュのエピソードが面白かった。ノイマンと同じように人間離れした知性を持ち、ともに20世紀を代表する数学者になるが、あまりに対照的な人生だ。

天才であるがゆえにそのようにしか生きられなかった人たち。本書は、フォン・ノイマンの人生を通じて、様々な天才の生き様が浮かび上がる。

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それにしても、人の人生には軽重はなくみな等しく尊い、あるいは、人の人生には軽重はなくみな等しく無意味だ、とどちらでも言うことはできるし、ワクチン接種の後に仕事アレルギーで一日ぼんやりしていたってそれはそれでいいじゃないか、なんていうのは、理性が導きだすことである。などという妄言を吹き飛ばしてしまうのが、このような知の巨人の人生だ。1人の知性・理性がこれほどまでに明晰でエネルギッシュで、どれほど人類に大きな影響を与えることができるのか、ということを思い知らされると、自分がいかに平凡で、ちっぽけで無意味な存在なのか、ちっぽけなまま、しかももっと悪いことに「私なりに何かを成し遂げたのだ」と自己満足のまま死んでいくのか、と考えるとイヤになってくるであろう。

すごいすごい、と読み進みながら、気になる自分の仕事の内容と一向に捗らない進捗を考えると、かなり悲しい気分になった。自分が出来るはずだったこと、出来ると思っていたこと、そしてやらなかったこと、やらないと決めたこと、そして今、これからの自分、そんなことが押し寄せてくる。

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さて、もし、理性というものが人間にすべからく備わっているならば、そして、論理的な関係のみですべて語られることができ、必然な結果と一つの真実しかないのであるのなら、なぜ、ある人にはわかって、ある人にはわからないのだろうか。発見するのに1人の強靭な頭脳を必要としたとしても、一度発見されれば、学者だけでなく誰でもわかる、そういうものであるはずではないだろうか。有限の記号列で表された有限の関係式で表現できる完結したものならば、私にだってわかるはずなのに、なぜ、世の中でわかっているほとんどのことが私にはわからないのだろうか。

抽象度のレベル、とか、複雑な場合分けや前提にたつ様々な要件とその理解、そのうえでの論理展開、記号、定理や数式とそれらの運用など、そんなことをつらつら考えていたら、ふと、「同じ土俵に立つ」という言葉を思い出した。

ある技術的、あるいは学術的な課題に対して、より高い抽象度の数学モデルを組み合わせあてはめ解くには、抽象的な思考力が必要だ。すなわち、目の前の課題や現象をある形式でとらえ、別の視点から、あるときは分析しあるときは総合することで、別の形式で捉え直すこと。(あれとこれはこの視点から見たら同じだ、というヤツだ)

しかし、ものごとを抽象化して考えるには訓練がいるし、抽象化レベルを上げていくには、数学や物理学の道のように、ステップステップでたゆみない努力が必要だ。そして、今到達している抽象化レベルは無限と思えるほどの高みがある。だから、有限な人生の中で、いかに訓練と努力の量を減らすことができるかというと、正しい道をかぎ分け、ときには抽象化レベルを飛び越える、そんな鋭い直観力が必要だ。

新たな真実を見抜き、見出された真実を理解するには、抽象的な思考力と直観力、この二つが兼ね備わっている必要がある。

同じ土俵に立つには、才能と努力が必要なのだ。

しかし、それだけではない。中島義道は著書「晩年のカント」の中で哲学の才能の持ち主が極めて少ない理由として、次のように述べる。

それは、きわめて抽象的な思考力や鋭い直観力の持ち主が少ないからではない。権威や教育や因習や習慣を一歳取り外して、物事を「素直に」見ることができる人が圧倒的に少ないからである。

これは自然科学や技術でも言えることであると私は思う。

思えば、フォン・ノイマンは、物事を徹底的に素直に見ることができる人だったのではないだろうか。その点ではアインシュタインでさえ、及ばないところがあったのかもしれない。しかし、物事を徹底的に素直に見て、すべての因習や習慣をのけて取り組むということは、人間であることを忘れることなのかもしれない。そして、人間のふりをした悪魔か、神か、そのような視点になるのであろう。そんなことを考えた。



■注記

(*1)20年ほど前だろうか、好敵手だった事業部の課長さんが、メールを見ながら、「また、こいつ感嘆符つかってるよ、自分でビックリするな。あほ。」とブツブツいっているのを聞いてから、私はなるべく感嘆符を使わないようにしている。だが、妻や娘、妻の従妹さんや従妹さんの娘さんなどにLINEでやりとりするとき、紋切り型が嫌われる感じがするうえ、どうしても弾んだ気持ちを込めたくて「!」がつきがちだ!実は、お爺さん文体、お爺さんにお付き合いする文体、なのかもしれない!


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