生命のはずみ・6:ベルクソン「創造的進化」 読書の楽しみ
私たちが不思議だと思うことは私たちの思考の形式によって自ら生み出していることなのだ。
ベルクソン「創造的進化」を読んでいて、なかなか興味深いと思うところばかりなのだが、例えばゼノンのパラドックスに関して、人間の認識の形式そのものによって生まれるパラドックスであると論じるあたり、当たり前の人が当たり前に考えるところから決して離れるところがない、そんなところが面白い。
本来は、運動は分割できないものであるのに時間ごとのスナップショットの集合のように考えたり、ものの性質一般は常に変化しているし個々で必ず異なるのに、ものにある性質があると認識する、その仕方は人間がものごとを空間的にも時間的にも要素としても分解して静的な断面ととして捉え、それぞれの相互関係を考えるのは、私たちの持つ知性特有の働きである。そこにパラドックスを見つけたり、無限大・無限小・連続や無理数などの不思議を見つけたりするのは、その知性特有の働きによって生じる知性自身の面白さであり不思議なのだ。
実在は無から生まれる、として、その前在するべき無はどこから生まれたのだろうか、という疑問であるとか、ものには「存在する」という状態と「存在しない」という状態があるが、しかし「存在しないもの」とはどういうものなのだろうか、という疑問、あるいは、ものの実在は実証できないが「実在する/しない」という論理そのものは実在するに違いない、など、そういう疑問である。
「あるものがない」という認識は「あるべきものがない」といいかえるだけで認識特有の問題であることに気付く。
とはいえ「だからすべてが幻想だ」と言うにもちょっと早い。
ひと段落ごとに、改めて思って見ればなるほど面白い、こういう見方もあるものだ、と精神が躍動するような楽しさがあるが、しかし、私はこの本を1998年に買ってそのころに読んだはずだ。それなのに、今読んでみて初めて、問題を問題として認識し、それに対する著者の考え方が頭に染み込むように感じられるのはなぜなのだろうか。
それに、もっと前、大学のころにぶつかって読んでそこころに考えているべき問題意識ではなかっただろうか。
あのころの私の読書と今の私の読書のどこが違うか、振り返ってみると、以前の私の読み方は「自分の考えを確かめる」ような読み方であったと思う。だから読んだことを覚えていないのだろう。今は、もっと著者の声を素直に聴いて著者の考えを通して世界を見よう、とそういう読み方ができるようになってきたように実感している。じっくりと長い時間をかけて良書に取り組むことができるようになってきたことが大きいと思う。
ここから疑いを積み問いを重ねて著者と対話できるような読書ができるようになれば、もっと面白くなるに違いない。
上に書いたようなことは、哲学を専門にしている人にしてみたらほんの入り口のことなのだと思う。ただ、じっくりと考えながら読書を楽しむことができるようになったことがちょっと嬉しいと、学生時代に戻った気分を楽しみながらベルクソンを読んでいるところだ。
よく考えることはよく生きることだ。
忘れないようにしていきたいものである。