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【読書】小川勝『オリンピックと商業主義』
P13
オリンピックに対して、我々には二つの立場が提供されている。
一つは──こちらが多数派だが──オリンピックを、古代オリンピックから続くアスリートの崇高な祭典ととらえ、舞台裏の事情はさておいて、テレビの前に(あるいは観客席に)座るという立場である。
もう一つは、舞台裏の事情に目を向け、オリンピックにまつわる利権のシステムを追求し、国際オリンピック委員会(IOC)が掲げている理念との馬鹿馬鹿しいほどの乖離を指摘して、近代オリンピックを批判するという立場である。
(略)
前者の世界においては、オリンピックの存在価値に疑問が呈されることはない。(略)一方、後者の世界においては、オリンピックの存在価値はもはや失われている。オリンピックはIOC貴族と一部多国籍企業の玩具(おもちゃ)であって、これに夢中になっている世界中の観客は、支配者たちにだまされた世間知らずの哀れな人々ということになる。
(略)
本書は、この両者の間に橋をかけようとする、ささやかな試みである。
(「序章 三つのロンドンオリンピック」より)
近代オリンピックの歴史をたどりつつ、その商業化の功罪について考察します。
商業化の弊害とは具体的に何か、スポーツにまつわる金の流れは、社会的に、あるいは倫理的にどう捉えられるべきなのか。
テレビ放送向けの競技のルール改正についても「それがスポーツの本質を損なうものなのかどうか」まで考え、最後には、オリンピックは誰のためのものなのかと根源的な問いかけをします。
市場価値とスポーツの本質の相剋という視点は、ちょっとマイケル・サンデル教授の授業を思い起こさせました。
(2014/3/23 記、2024/4/7 改稿)
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小川勝『オリンピックと商業主義』集英社(2012/6/15)
ISBN-10 : 4087206459
ISBN-13 : 978-4087206456