【読書】海上知明『信玄の戦争 戦略論「孫子」の功罪』
地元の里山探索で、小倉山、雨乞山を経て宮ヶ瀬ダムに至る山道を調べていたところ、ルート上の三増峠というところは1569年に武田信玄と北条氏が激突した合戦の地であると知りました。
「へえー、あの武田信玄がこんなところまで!」と、実はこの本は三増峠の合戦について知りたいというだけの理由で見つけてきたのですが、読んでみると当初の目的と違ったところでとても興味深い内容でした。
本書では、戦国時代の名だたる武将の戦略スタイルについて比較検討します。「旧態依然とした武田氏(騎馬隊)は、先進的な織田信長(鉄砲隊)に負けた」と、『まんが日本史』を読んでぼくは小学生のころから思っていたわけですが、この本を読むと、どうもそれは一面的な見方のようでした。
── 信玄や謙信が信長と戦ったらどうなるかという設問があるが、質問自体が愚問とみえるほどに答えは明白である。信玄や謙信の圧勝となる。信玄も謙信も軍事的天才であり、この方面において凡庸な信長では比較にならない。(『信玄の戦争』P17)
では、なぜ天下を取ったのは織田信長であって、武田信玄ではなかったのかという点について、この本では、信玄の「孫子」的戦略に対する織田信長の「マキャベリ」的戦略という図式で説明します。
これが、ちょっと出来過ぎなくらい整理されていて、説得力がありました。
── 信玄を『孫子』の学徒とするならば、信長はマキャベリがその存在を知りえたら絶賛した人物である。信長が重んじたのはスピードであり、信玄は確実性を望んだ。また信玄は利益を最大限に高めることを考え、そっくりと手に入れることを望んだが、信長は徹底的な破壊と新規の建設を好んだ革命家である。
(中略)
信玄が学んでいた『孫子』は、古代中国の春秋戦国時代にまず生き残ることを主眼にして成立した。対してマキャベリの『君主論』は、ルネッサンス時代に群雄割拠するイタリア半島を統一することを主眼としていた。信長は『君主論』的人物、いわゆるマキャベリストであった。
マキャベリがなにより重視したのはスピードであり、そのためには「多少大胆な方がいい」と言い切っている。慎重さを重んじる『孫子』とでは、力点に若干の差がある。これは当然で、各々求めるものが違っていた。『孫子』では生き残り策が第一であるが、『君主論』は統一策が第一義とされるからだ。『孫子』は勝利すること、より正確には負けないことを最上としたが、『君主論』では素早さが重視される。(『信玄の戦争』P216)
おもしろい本との出会いというのは、しばしば意外なきっかけからもたらされるものだな……と思います。
(2015/4/2 記、2024/10/13 改稿)
当時、小倉山周辺の登山道を調べて二度登頂しました。標高327.2mのとるに足らない里山でしたが、滅多に人が入らず、少々荒れて冒険感のある山でした。
現在、この山頂はどうも隣接する採石場の採掘活動で失われているようです。付近の山からは、削られて山頂を失った無惨な姿の小倉山が見えます。1569年の合戦においては、おそらく武田方も北条方も目の端に捉え、少なくとも2015年まで登ることのできた小倉山ですが、どれだけ願ってももはやそのピークを再び踏むことは叶いません。
地形とは有限の資源なのだと実感しています。
(2024/10/13 記)
海上知明『信玄の戦争 戦略論「孫子」の功罪』KKベストセラーズ(2006/11/20)
ISBN-10 4584121249
ISBN-13 978-4584121245