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ジェイラボワークショップ第79回『俳句は創作か』【俳句部】[20241021-1103]

本記事は、ジェイラボ内で2024年10月21日から11月3日にかけて行なわれた、俳句部主催の第79回ジェイラボワークショップ『俳句は創作か?』のログです。

★印の見出しはメイン文章の投稿者、「・」印はそれに対するリプライヤーを表します。■はその他のコメントの発言者です。

1日目

★あんまん

おはようございます。これから2週間俳句部のワークショップを担当させていただきます。部長のあんまんです。よろしくお願いします。
前回の俳句部の第一回のワークショップにて俳句は創作かどうかというのが議論になりました。これについて部員内で意見が分かれており、部員以外にも聞いてみて考えてみようと思い立ちました。そこで今回のワークショップでは創作とは何かを考えることを足がかりにして俳句は創作かについて考えて見たいと思います。

ws座談会は10月27日21時からを予定しております。名句を鑑賞することによってそれが何故名句であるのか、どのようなところが素晴らしいのかを考えます。よろしければ参加ください。

初日はアンケートです。

俳句は創作か?
はい:12
いいえ:2

写真撮影は創作か?
はい:10
いいえ:4
その他:1

ダンスの振り付けを考えるのは創作か?
はい:13
いいえ:2

論文を書くのは創作か?
はい:10
いいえ:4

自分のために日記を書くのは創作か?
はい:8
いいえ:5
その他:1

作曲することは創作か?
はい:13
いいえ:2

800字書評を書くことは創作か?
はい:11
いいえ:2
その他:1

・けろたん
「行為Xは創作か?」という問いを「行為Xで創作されるものはなにか?」と変形して考えて投票してみました。「創作」よりも「発見」という側面が大きいようにおもったものは、「いいえ」に投票しました。両方あるなとおもったものはどちらにも投票しました。

・あんまん
新しいものを発見したのか、新しいものを作り出したのかがポイントですね。

2日目

★あんあん

2日目です。 Googleで「創作」と検索するとOxford Languagesの定義が出てきます。 1. 最初に作り出すこと。 「―料理」 2. 純文芸などの作品を作ること。また、その作品。特に小説。 「―意欲」
 他の辞書も引いてみて共通するのは「新たに」や「初めて」ものを生み出すという点です。創作活動が「それまでにない、新しいものを生み出そうとする活動」であることは認めて良いでしょう。その点でただ手を動かして「つくる」ということとは区別されます。しかし、ただ新しさがあれば良いというわけではありません。新規性という一つの軸だけだった場合、ただ奇抜、特異でありさえすればたとえ全く意味を持たないようなものであっても創作の定義の中に含まれてしまうからです。ゆえに、創作には新しさだけでなく、意味のあるもの、妥当なものであるという要素も必要に感じます。 ここで一度立ち止まって考えます。「新しさ」とは何か。上の例でいうと、日記を書くことは、その書く行為によってこの世に新たな文章が生み出されたという点で「新しい」といえます。しかしその内容は、その日あったことを思い出して書き起こしているだけでその書き手にとっても社会から見ても「新しさ」なんてものはありません。もし、その日全く同じ行動した別の人がいて、その人も日記を書くとしたら、2人の日記は同じ内容にはならないはずです。その人の書き方の癖や感じ方は人によって異なるので日記に「独自性」は生まれるでしょう。ですが「新規性」は見当たりません。 
学術論文はどうでしょう。人類がまだ発見していなかった事柄が記述されたものが学術論文であるため、書かれている内容は新しい。ですが、学術論文に書かれている「新規性」は生み出されたものではありません。見つけ出されたものです。このような「新しい」の所在が自分の中にあるのか外にあるのかは創作を考える上で一つのポイントになります。そして創作は誰にとっての「新しい」なのか。生み出した個人にとっての「新しい」なのか、社会や歴史から見ての「新しい」なのか。日記のように存在としての「新しい」なのか。

自分にとって「新しい」のであったら、その新しさは自分以外の外部から来る他ありません。じゃあその新しさを「生み出している」なんていえるだろうか。なら、そもそも自分で創作なんてできるだろうか。
質問:創作の「新しい」とは誰にとってものだろうか?(「新しい」ってなんだろう?)

・Takuma Kogawa
誰かが新しいと思ったら新しいのであり、最初から誰かにとって新しいかが決まっているわけではないと思います。あんまんさんの言うところの、独自性と新規性の違いはよくわかりませんでした。辞書的には独自なものは新規なものではないですか。

・あんまん
独自性と新規性が同じであるならば、2つの日記を分けるのは何でしょうか?

・Takuma Kogawa
独自性と新規性が同じとは考えていません。同じだとするなら、新規性を考慮せずに独自性に着目すればよいことになり、あんまんさんが「その人の書き方の癖や感じ方は人によって異なるので日記に「独自性」は生まれるでしょう」と言っているように、癖や感じ方によって日記を分けられると思います。

6日目

★匿名希望

みなさんこんにちは,昼夜逆転の方,こんばんは, 匿名です. さて,本日は私から1つ質問をさせていただきたく思います. その質問を端的に述べると,「創作に解釈の幅は必要か?」 ということです. 創作に解釈の幅は必要か? 創作(物)に解釈の幅(違い?)は必要か必要ではないか? ということですが, なぜ,解釈の幅が必要だとしたら,なぜ必要なのだろうか? "解釈の幅"とは,具体的に何を意味しているのだろうか? その意味を知るためには,自分はどういうジャンルの情報元を探ればよいだろうか? 創作に解釈の幅は本当に必要なのだろうか? 逆に,創作に解釈の幅が必要でないとしたら,その理由は何だろうか? なぜ,解釈の幅は必要ではないのだろうか? もし,創作に対する解釈の幅が限られている世界ならば,私達の感性は,この世界を生きている私達の感性と異なるものになっているだろうか? ... 考えていくにつれて,私自身も,迷い込んできたような感じだったので. 迷い込んだ中で自分なりの答えを出すことは良いことだと思いますが, 一応,参考として,問いの意味自体を,chat GPTに尋ねてみました. --- >>俳句の創作に,解釈の幅は必要か? >>文意を教えて 「俳句の創作に解釈の幅は必要か?」という問いは、俳句を作成する際に、その作品が多様な解釈を可能にする余地を持つべきか、という意味です。つまり、俳句の読者が作品を読んだ際に、詩の内容を一つの固定的な意味に限定せず、複数の解釈ができるようにしておくことが重要かどうかを尋ねています。 具体的には、俳句のシンプルな形式で表現される情景や感情を、あえて曖昧さを残して伝えることで、読者の想像力を引き出し、その人なりの解釈を楽しんでもらうことが必要かということです。この問いに対する答えは、作者の意図や読者に与えたい体験、俳句の表現の多様性をどう捉えるかによって異なるでしょう。 だそうです. 私個人の意見は置いときまして,改めまして,ここで質問です.

質問:創作に,解釈の幅は必要だろうか?

・Hiroto
「必要じゃなかろうが、絶対発生する。ので、別に特段必要とか言う必要はない。」にしときます。

・匿名希望
コメントありがとうございます. 確かにそう思います! 必要じゃなかろうが、絶対発生する,なるほどなと思いました.

・Takuma Kogawa
解釈の幅はあってもなくてもいいです。作者解説のようにいかにも正しそうな回答案を提示されると解釈を誘導されてしまうので「公式が勝手に言っているだけ」という切り分けを個人ができるかが重要だと思います。

・匿名希望
コメントありがとうございます. 参考になります.

・imadon2478
エンタメ性を高め、被表現者の「考察」意欲や購買意欲を促進するための「マーケティング技術」として、意図的に解釈の幅を出すことは必要な場合もあるとは思います。
例えば、漫画の週刊・月刊連載は、完結した作品を提供する上での負担を軽減するという作者への「配慮」でもありますが、情報を小出しにすることで読者の(今後の展開への)解釈に幅を持たせ、購買意欲を促進するという、売り上げを増やすための、創作・表現形式上の技術でもあります。
これは完結した作品に生まれる解釈ではなく未完結ゆえに生まれる解釈の話なので、少し話が違うかもしれませんが。

しかし創作をする上で本質的に解釈の幅を広げようとする努力が必須かと言われれば、そうではないと思います。

7日目

■イヤープラグさざなみ
本日2100~ 俳句部WS座談会です。よろしくお願いします。

11日目

★imadon2478

3日目担当のimadonです。投稿が遅れてしまいすみません。 ここまでの流れを簡単にまとめると、「創作に独自性・新規性は必要か」という問いがあんまんさん担当の1日目、「創作に解釈の幅は必要か」という問いが匿名希望さん担当の2日目でした。 WSを準備するにあたって色々考えてみましたが、僕もあんまんさん同様、「創作とは何か」を考える上で重要なのは、独自性、つまり自分の「作為」が創作行為のどこからどこまでを占めているかであると思いました。 これは僕の意見にはなりますが、例えば、ネット上の記述をコピペして作ったレポートは、創作物ではないと感じます。そこに自分の作為はなく(ただCtrl+CとVを繰り返しただけ)、意欲や思想も感じられないからです。 では、コピーバンドはどうでしょうか。プロのアーティストの曲を借りて演奏するというのは、創作に入るのでしょうか。 写実画を書くのはどうでしょうか。見た光景をそのまま油彩画に変える、その行為は創作と言えるでしょうか。 初日のアンケートから察するに、前者は意見が分かれて、後者は創作だと考える人が多いのではないかと思います。 少なくとも、前者については、僕はかなり悩みます。 なぜ悩むのかというと、創作には「産みの苦しみ」がつきものだと考えているからです。 ただ有名アーティストの曲を録音してスピーカーから流す、その行為が創作ではないのは、先ほどのコピペのレポートが創作でないのと同じです。しかし、アーティストの演奏をできる限り忠実に再現するとか、アレンジを効かせるとか、そういったコピー元の再現に伴う「苦労」が見えるのなら、それは創作なのかなあという気がします。 写実画が単なる景色のコピーではなく「芸術」だとされるのは、絵筆で景色を模倣することには技術上の困難を伴うということが、素人目に見ても明らかに分かるからではないでしょうか。 まとめると、僕はあるものが創作かどうかに関して、制作過程における苦しみがあったかどうかというのをかなり重視します。「独自性」を出す上での苦労です。 主観的かつ曖昧な表現になってしまい申し訳ないのですが、皆さんに質問です。
Q. 創作活動に、「産みの苦しみ」や意欲、思想、制作上の困難は、必要だと思いますか?
回答をお待ちしております。

12日目

■コバ
「〇〇は創作か?」というのはその問いだけでは確定できないはずです。なぜなら創作とは抽象化すると作り方のことで、今回議題になっている作曲や俳句のような〇〇には表現技法の側面と表現された結果生まれた物、つまり成果物としての二つの側面があるからです。つまり俳句を五七五の文字群という成果物として見れば俳句は創作ですが、作る行為(現実と言語の間に立つ)で見れば創作ではないです。 ※補足ですが最後の文章での創作とは「新しいものを作り出すこと」と定義しています。 続いてQ:創作の「新しい」とは誰にとってものだろうか?(「新しい」ってなんだろう?)に関してですが、「新しい」というのは評価のことです。なのでその評価者にとってのものです。 それに関連してQ:創作に,解釈の幅は必要だろうか?の「必要」も評価のことです。なのでこれも「新しい」と同じでどの主体にとっての必要か?という話になります。主体を私に置いてアンサーするなら必要ではないと思います。 Q. 創作活動に、「産みの苦しみ」や意欲、思想、制作上の困難は、必要だと思いますか? このクエスチョンも同じ構造なので説明は省きますが、アンサーとしては私は必要ではないと思います。

・イヤープラグさざなみ
今日は私から投稿する予定でしたが、延期します。これまでと問いの形式が同じであるからです。コバさんの言う、「作る行為で見れば創作ではないです。」に引っかかっています。もう少し考えます。

13日目


・イヤープラグさざなみ
明日中に返信できればします。間に合わなければ、フォロースレッドで続きを投稿させてください。

・imadon2478
(To コバ)
3点質問させてください! WS終了後、フォロースレッドにて回答して頂いても大丈夫です。 ①五七五の文字列としての俳句は「創作物」ではあるが、俳句を詠む行為は「創作行為(新しいものを作り出すこと)」ではない、という認識で合っていますか? ②僕も「新しい」という価値判断は、創作者も含め、その主体たる評価者に依存すると思います。 創作行為が「新しいものを作り出すこと」であるとするならば、ある行為が創作行為がそうでないかは、評価者が「新しい」と思えばそうであり、「新しくない」と思えばそうではない、ということでしょうか? ③俳句を詠む行為において「新しいものを作り出していない」と言えるのは、俳句のいかなる特色によるものですか?

・コバ
(To imadon2478)
フォロースレッドにて回答します。

14日目


★あんまん
早いもので最終日になりました。

作品の評価は受け取る側が全て。作品の評価は受け取る側が生み出す。評価という言葉はそうでしかあり得ません。

「〇〇は創作か?」という問いは作品の受け手が創作だと思ったらそうであり、そう思わなければ創作ではない。作品の作者自身も受け取る側です。だから作者が創作だと思ったらそれは作者にとって創作である。これが「俳句は創作か?」の私の答えです。

では、どんな要素がその作品を受け手に創作だと思わせるのか。これが私の問いたいことでした。

新規性?独自性?他者の存在?産みの苦しみ?解釈の幅?実体の有無?

「新しさとは評価であって、受け手が新しいと思えばそれは新しいものである。」と言うのは短く言えば「新しさとは新しさである」と言っているに過ぎません。たしかにそれは正しいです。そうでしかあり得ません。では、人はなぜそれを新しいと思うのか。私たちが何かを評価するとき、何をもとに評価させられているでしょうか。

私は俳句が創作ではないと思っています。俳句を初めてインプットに意識的になってより強く感じるようになりました。人生の中でインプットしてきたものの積み重ねをアウトプットすることでどんな要素が付加されるのか。自分がオリジナルと思って出したものでも、それは自分が経験したものを出しているだけなので、結局は現実の模倣だと考えたからです。私がしているのは過去の経験の選択だけで何かを生み出しているような気はしません。成果物が大きくなればなるほど、自分の手柄のように感じやすいように思います。俳句というとても小さな作品を扱ったからインプットの力に驚き、こんな考えに至りました。
以上が私の所感です。

このWSで創作物、俳句に対する印象か変化しましたでしょうか。なにか発見があれば幸いです。

以降は俳句部WSのフォロースレッドにコメントをお願いします。
それでは筋肉探求部にバトンを渡します。ありがとうございました。

(以上。ログ作成者:イヤープラグさざなみ)


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