【書評】『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』/会話と仮説【基礎教養部】
Amazon.co.jp: 99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書) : 竹内 薫: 本
上に挙げた本と、以下に紹介する2つの記事の内容を受けて私が考えたことを書く。
99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 を読んで報告という行為について考える。|シト (note.com)
99・9%は仮説~思いこみで判断しないための考え方~ | 基礎教|ジェイラボ公式部ログ (j-lectures.org)
人と話したり、本を読んだり、わたしたちは生活の中で言葉を通して他者と関わっている。そこで使われる言葉は、その使い方について、使用者間で合意が取れている。と思い込んでいる。私にとっての「りんご」はあなたにとっても全く同じ「りんご」であるという合意である。しかしそうであるなら、他人と話が噛み合わなくなることは起こりようがない。すべての人間が言語を全く同様に使用するならば、誤解は生まれないし、そもそも話す必要がない。これは実際とは異なる。
相手とよりわかり合うために、わたしたちは上とは異なる考えのもとで合意を取り直す必要がある。すなわち、私の使う言葉とあなたの使う言葉は違うものである。私が使っている言葉はあくまで私の「仮説」に基づいたものでしかないという考えである。上の例で「りんご」を「愛」に変えれば、おかしいことにすぐに気がつくだろう。
私の言葉は私の仮説に、あなたの言葉はあなたの仮説に、それぞれ基づいている。そう考えると、私が他者の言葉に触れるときに意識すべきは、相手がどのような仮説のもとでその言葉を使っているのかということである。相手の立場に立って考えるということだ。しかしそんなことができるのだろうか。いや、できない。相手の採用する仮説というのはすなわちその人にとっての世界の見方そのものであり、それを仮に私が捉えたとすれば、それは私自身の仮説の下で、である。どこまでいっても、私に見えているものは、私が見ているのである。相手の立場に立って考えることなどできない。考えて、相手の立場に立とうとするのが精一杯である。原理的に。
私は何かを伝えたくて言葉を発する。それは自分の想定通りに相手の元へと届いているだろうか。わからない。届いているかいないかの判断基準を設定しようがないので、そう問うこと自体がナンセンスである。自分の頭の中にある「何か」と、それを表現した言葉はそもそも同じものではない。それが相手に届く頃には原型の何割くらいが保存されているのか。いや、「前回は6割伝わったけど今回は8割も伝わった」などと比べられるものではない。これまた問そのものがナンセンスである。どうしよう。
現実的に考えて、「仮説」の考えを採用し切ることは難しい。言葉の使用に関して、私とあなたが全く異なる仮説を前提にしていると考え出そうものなら、会話など成立しない。そして、「仮説」など考えなくとも、日常における殆どの場面で、フツーに話は通じるのだ。いや、考えていないからこそ通じていると思えているのだ。それで大体の場合、フツーに通じれば、それでいい。
私にとっての仮説は私だけのものであるが、言葉の使用は強制的に私を他者と接続させる。言葉は私の言葉であるが、私だけのものではありえない。みんなの言葉でもある。不思議なものである。
先に書いた、「考えて、相手の立場に立とうとする」とはどういうことか。それは、相手を自分と同じような人間であると仮定して、その上で、自分がその立場に立ったらどうするだろうかと考えをめぐらすことである。わからなくても、わかろうとすることはできる。そして、思い込みで判断しないために、思い込みで判断しなければならない。結局は一方通行だ。
他者とわかり合うために、いかに「上手く」「言語化」するかが注目されがちである。実際に私もそれができるようになりたいと思っている一人なのだが、同時に言語なんて大したものではないと思う気持ちもある。何かを伝えるのに、言語だけでは貧弱すぎると。あくまで一手段として言語による表現があるだけである。
昔ながらの銭湯の、タイル張りの浴槽で。頭にタオルを乗っけて肩までお湯に浸かる向かいの太ったおじさんの顔。私たちは一度も話したことがないけれど、それでも、なぜか、深く通じ合っている気がした。