『マチネの終わりに』と『それから』に似たものを感じた話
愛おしき隣人、高等遊民
好きな日本の近代文学は、と問われると僕は武者小路実篤『友情』を挙げることが多い。
そしてもう一作は夏目漱石の『それから』。
実篤も『それから』に感銘を受けて、文芸雑誌「白樺」で批評したこともあった。
いわゆる高等遊民・近代知識人としての主人公・長井代助の在り方に、昔から憧れを覚えている。
定義上、ニートとは「Not in Education, Employment or Training」の事であるため、高等遊民の現代版と捉えるのは不適切。貴族から派生した、“有閑知識人”と言って然るべき。
まぁ、そこを論点にしようとしていたのが、ドラマ『デート~恋とはどんなものかしら~』だったのでしょうが、実態はいざ知らず、現代に「(高等)遊民」と呼ばれる人がいないので、どうにも死語に近い。
ところで、どうして今更、愛読書のひとつを取り上げたかと言うと、映画「マチネの終わりに」を視聴したことを受けてであるのだ。
余談だが、「マチネ(matinee)」はフランス語で「朝の、午前の」という意味で、ミュージカルなどの昼公演を指す。
一方、夜公演のことは「ソワレ(soiree)/日が暮れた後の時間」という。
映画としての「マチネの終わりに」
既に購入済みではあるが、現段階では、平野啓一郎さんの原作は未読なので、いずれアップグレード情報も載せたい。ひとまずは、こちらもあらすじのみ掲載しておく。
ストーリーの流れから、どこか『それから』を彷彿とさせたので、自分なりに共通点を考えていきたい。
個々の感想はいずれもベストセラーであるが故に、非常に容易く、多くの人々の感想を閲覧できる。
だが、思うに重要なのは、自分がそれを享受したことで、何を発見したかだけでなく、どう結びついたかも考える事だろう。
個人的に、この映画は視覚的にも、丁寧で、伏線と言っていいのか分からないが、様々な対比やメタファーがみられる。
海外シーンも多く、主人公も“天才ギタリスト”であるなど、そもそもが現実離れしている。
しかしそれは劣性などではなく、むしろ、彼らの不倫的な感情を描くにあたって、非常にいいバランスがとられるのだ。
視覚的に美しい。福山雅治も相変わらず。だが、内面は?
それはあたかも高等遊民を肯定しきれない、ニートへの批判のようなものに近い。
人は人、などと割り切れないところに、アリストテレスのいう「ポリス的動物」、アドラーの「全ての悩みは、対人関係の悩みである」に落とし込まれるような真理めいたものがある気がしてならない。
現実的だが、理想世界? 超俗的だが、俗物性がある?
例によって、ネタバレは避ける。
とあるシーンで、福山雅治さん演じる主人公は、ヒロインを迎える為に、部屋を掃除する。
実はそれまで、いわゆる日常的なシーンは欠落しており、「現実味の強いおとぎ話」でしかなかった。その延長に、掃除と料理。
当然、彼の部屋は映像的に、もとから綺麗でおしゃれ。
そこを、コードレス掃除機とルンバの二つを駆使して、同じ所を掃除されても、やはり我々は“シーン”でしかない事が分かる。
それはおそらく、彼にとっても、「独身貴族」として、人をもてなすというのを、映画などでしか、実際の上で学んでこなかったからだろうと、僕は推測する。
それはあたかも、女子へのいたわり方を、萌えキャラから学ぶようなものであり、結局、非日常とは言わないものの、日常的なものとは認めがたい壁がある。
現実への若干の距離・乖離、超俗とも言ってもいい。そのような生き方をしてきた人間の悩む、俗物的な問題。
決して「脱俗」してきたわけではなかったからこそ、あくまでも、現実に根ざした解決しか後にはない。
むしろ、映画『マチネの終わりに』では、嫌なキャラの方が実在性があって、悪役には収まらない。
NHK制作で、宮崎駿さんのドキュメンタリーの一つ「終わらない人宮崎駿」というのがある。
ネットでも、宮崎さんがガチギレしたと話題になったが、当時リアルタイムで観ていた時には、やはりそれなりに印象に残っている。
その中で、宮崎さんが企画・チームの困難・問題に直面した際、鈴木敏夫さんが、段取りが上手くいかない・思い通りにならないことを確か、“神通力がつうじない”と言っていた覚えがある。
芸能というものが、神へ奉納するものを起源として成立したように、文芸に親しんできた人間は、それも社会から距離を取ってまで触れてきたものは、高等遊民どころか、ある意味、神官のような気分さえ、名作を知った時には感じられるものだ。
ところが、カースト制では、王侯貴族の上に、神官が位置しているというのに、実際的な幸福実現のためには、やはり「人並み」の努力が強いられる。
その時の手法が、あくまで理想的であるからこそ、神通力がつうじない事もあるだろうし、逆にロマンティックにもなり得る。
『それから』も『マチネの終わりに』も、その後は明かされない。
彼らの進むのであろう“日常”とはどういったものなのだろうか。
言い換えれば、理想に多く触れてきた僕らのそれから、マチネの終わりには何が待っているのだろうか―――
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