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『マチネの終わりに』と『それから』に似たものを感じた話

愛おしき隣人、高等遊民

長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。
実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。
破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く、『三四郎』に続く三部作の第二作。

新潮文庫『それから』紹介文より

 好きな日本の近代文学は、と問われると僕は武者小路実篤『友情』を挙げることが多い。
 そしてもう一作は夏目漱石の『それから』
 実篤も『それから』に感銘を受けて、文芸雑誌「白樺」で批評したこともあった。

 いわゆる高等遊民・近代知識人としての主人公・長井代助の在り方に、昔から憧れを覚えている。
 定義上、ニートとは「Not in Education, Employment or Training」の事であるため、高等遊民の現代版と捉えるのは不適切。貴族から派生した、“有閑知識人”と言って然るべき。
 
 まぁ、そこを論点にしようとしていたのが、ドラマ『デート~恋とはどんなものかしら~』だったのでしょうが、実態はいざ知らず、現代に「(高等)遊民」と呼ばれる人がいないので、どうにも死語に近い。

 ところで、どうして今更、愛読書のひとつを取り上げたかと言うと、映画「マチネの終わりに」を視聴したことを受けてであるのだ。

 余談だが、「マチネ(matinee)」はフランス語で「朝の、午前の」という意味で、ミュージカルなどの昼公演を指す。
 一方、夜公演のことは「ソワレ(soiree)/日が暮れた後の時間」という。

映画としての「マチネの終わりに」

 既に購入済みではあるが、現段階では、平野啓一郎さんの原作は未読なので、いずれアップグレード情報も載せたい。ひとまずは、こちらもあらすじのみ掲載しておく。

たった三度出会った人が、誰よりも深く愛した人だった――
天才ギタリスト・蒔野聡史、国際ジャーナリスト・小峰洋子。
四十代という〝人生の暗い森〟を前に出会った二人の切なすぎる恋の行方を軸に、芸術と生活、父と娘、グローバリズム、生と死など、現代的テーマが重層的に描かれる。最終ページを閉じるのが惜しい、至高の読書体験。第2回渡辺淳一文学賞受賞作。

文春文庫・紹介文より

 ストーリーの流れから、どこか『それから』を彷彿とさせたので、自分なりに共通点を考えていきたい。
 個々の感想はいずれもベストセラーであるが故に、非常に容易く、多くの人々の感想を閲覧できる。
 だが、思うに重要なのは、自分がそれを享受したことで、何を発見したかだけでなく、どう結びついたかも考える事だろう。 

 個人的に、この映画は視覚的にも、丁寧で、伏線と言っていいのか分からないが、様々な対比やメタファーがみられる。
 海外シーンも多く、主人公も“天才ギタリスト”であるなど、そもそもが現実離れしている。
 しかしそれは劣性などではなく、むしろ、彼らの不倫的な感情を描くにあたって、非常にいいバランスがとられるのだ。
 視覚的に美しい。福山雅治も相変わらず。だが、内面は?
 
 それはあたかも高等遊民を肯定しきれない、ニートへの批判のようなものに近い。
 人は人、などと割り切れないところに、アリストテレスのいう「ポリス的動物」、アドラーの「全ての悩みは、対人関係の悩みである」に落とし込まれるような真理めいたものがある気がしてならない。

現実的だが、理想世界? 超俗的だが、俗物性がある?

 例によって、ネタバレは避ける。
 とあるシーンで、福山雅治さん演じる主人公は、ヒロインを迎える為に、部屋を掃除する。
 実はそれまで、いわゆる日常的なシーンは欠落しており、「現実味の強いおとぎ話」でしかなかった。その延長に、掃除と料理。
 
 当然、彼の部屋は映像的に、もとから綺麗でおしゃれ。
 そこを、コードレス掃除機とルンバの二つを駆使して、同じ所を掃除されても、やはり我々は“シーン”でしかない事が分かる。
 
 それはおそらく、彼にとっても、「独身貴族」として、人をもてなすというのを、映画などでしか、実際の上で学んでこなかったからだろうと、僕は推測する。

 それはあたかも、女子へのいたわり方を、萌えキャラから学ぶようなものであり、結局、非日常とは言わないものの、日常的なものとは認めがたい壁がある。

 現実への若干の距離・乖離、超俗とも言ってもいい。そのような生き方をしてきた人間の悩む、俗物的な問題。
 決して「脱俗」してきたわけではなかったからこそ、あくまでも、現実に根ざした解決しか後にはない。

 むしろ、映画『マチネの終わりに』では、嫌なキャラの方が実在性があって、悪役には収まらない。

 NHK制作で、宮崎駿さんのドキュメンタリーの一つ「終わらない人宮崎駿」というのがある。
 ネットでも、宮崎さんがガチギレしたと話題になったが、当時リアルタイムで観ていた時には、やはりそれなりに印象に残っている。
 その中で、宮崎さんが企画・チームの困難・問題に直面した際、鈴木敏夫さんが、段取りが上手くいかない・思い通りにならないことを確か、“神通力がつうじない”と言っていた覚えがある。

 芸能というものが、神へ奉納するものを起源として成立したように、文芸に親しんできた人間は、それも社会から距離を取ってまで触れてきたものは、高等遊民どころか、ある意味、神官のような気分さえ、名作を知った時には感じられるものだ。

 ところが、カースト制では、王侯貴族クシャトリヤの上に、神官バラモンが位置しているというのに、実際的な幸福実現のためには、やはり「人並み」の努力が強いられる。
 その時の手法が、あくまで理想的であるからこそ、神通力がつうじない事もあるだろうし、逆にロマンティックにもなり得る。

 『それから』も『マチネの終わりに』も、その後は明かされない。
 彼らの進むのであろう“日常”とはどういったものなのだろうか。
 言い換えれば、理想に多く触れてきた僕らのそれから、マチネの終わりには何が待っているのだろうか―――

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