見出し画像

100年の孤独/放哉に想う〈Vol.25〉 静寂な水面のたたずまい

遠くへ広がつて行くばかり池の漣

尾崎放哉全句集より

1914年(大正3年)、29歳の放哉は東洋生命保険株式会社大阪支店に次長として赴任したと年譜にあります。そして住居は天王寺であったとあります。
就職して4年、将来を嘱望されていた放哉はそれなりの職位を得て、妻馨との新生活を送っていたことでしょう。
しかし、大阪転勤を機に潮目が変わってきます。新たな職場での人間関係に強く悩まされることになります。それが影響したかどうかわかりませんが、1年足らずで東京本社に戻されたあげく、役職は解かれ平社員となります。

年譜によると、東京に戻った翌15年(大正4年)の12月、「層雲」にはじめて放哉の一句が掲載された、とあります。会社勤めでの上達(出世)はともかく、この時期あたりを境に自由律俳句への歩みが深まっていくようです。

写真は、天王寺公園内の茶臼山古墳の脇にある河底池です。ここは1909年(明治42年)に開設された公園です。大阪勤め時代に、ひょっとすると放哉が歩いたかもしれない、と思わされる静寂な池のたたずまいでした。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?