しゅうしん

”孤独の俳人” 尾崎放哉が残した名句は、いまもなお色あせることなく輝いています。『尾崎放哉全句集』を鞄につめこみ、「100年の孤独」をテーマに一句一枚の写真を撮りにでかけています。

しゅうしん

”孤独の俳人” 尾崎放哉が残した名句は、いまもなお色あせることなく輝いています。『尾崎放哉全句集』を鞄につめこみ、「100年の孤独」をテーマに一句一枚の写真を撮りにでかけています。

最近の記事

100年の孤独/放哉に想う〈Vol.44〉

いまから30年近く前の話です。仲の良かった同僚が出張先で突然亡くなりました。脳幹出血でした。まだ40代半ばだったと思います。 彼が急死した夜、救急隊員は彼の携帯に登録された電話番号に電話しました。最初に架電した先は、わたしの携帯でした。数少ない登録番号の最初にわたしの番号があったからです。 その夜、わたしは夜遅くまで飲み歩いていました。だから、電話が鳴っていることにまったく気づきませんでした。 零時を過ぎたころ、繁華街を歩く群れの中にわたしはいました。最終電車に乗り遅れま

    • 100年の孤独/放哉に想う〈Vol.43〉

      1914年(大正3年)、放哉29歳のとき東洋生命保険株式会社大阪支店に次長として赴任し、天王寺に住んだことが年譜に記されています。 大阪では人間関係にたいへん苦労したようです。そんなことも影響したのか、1年足らずで東京本社に戻されています。 大阪の水……というか、放哉は大阪人の気質にどうもなじめなかったようです。 大阪の天王寺には、”隠れた名所”ともいえる天王寺七坂があります。北から南へ真言坂・源聖寺坂・口縄坂・愛染坂・清水坂・天神坂・逢坂――とつづきます。いまも石畳の通り

      • 100年の孤独/放哉に想う〈Vol.42〉

        日が暮れて、だれもいない家に帰るのは淋しい……電球のスイッチをパチンとひねると、目を刺す光の下に自分の影が落ちている――。 この句が詠まれたのは、ロウソクやランプに代わって徐々に電気が普及し始めた、近代の波が寄せ来る時代でした。 ときに人は人間関係で煩わしさを覚えたり、感情のもつれから諍いを起こしたりすことがしばしばあります。とはいえ、「ひとりぼっち」のままがいいとは、けっして思わないようにできている……そんな気がします。そう。「淋しい」という感情は、おそらく原初的に、生存

        • 100年の孤独/放哉に想う〈Vol.41〉

          だだだ・だだだ・だだだ・だだだ・だだだ――3連の連続音は、とてもリズミカルで力強い響きのある句です。 そして、放哉にとって”風”は流転へのいざないであり、酒同様に、放浪はやめようと思ってもやめられない……そうしないではいられない……表現者としての業だったのかもしれません。 写真は、石巻線の車窓から撮影した刈り入れの終わった田園風景のなかの芒の穂。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.40〉

          Vol.31「須磨寺逍遥」でも書きましたが、放哉は須磨寺の大師堂で一時期、堂守として暮らしていました。 写真は、その大師堂の前にある大きな香炉を両側で支えている稚児像の顔のアップで、香炉を正面にして向かって左側の像です。 これは阿吽形の「吽」にあたり、右側にある小さく口を開けた「阿」の稚児像と対になっています。 稚児像の表情は、日本画家の横山大観が描いた「無我」にも似た、なんともとらえどころのない虚ろな瞳です。そこに漂うのは法悦のしるしか、それとも諦観か……放哉の幼少の頃の

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.40〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.39〉

          小豆島の南郷庵で独居暮らしを始めた放哉は、亡くなるまでの7カ月の間に420通あまりの手紙を書き送っていました。師の荻原井泉水や各地の俳友などに宛てた1通1通は、どれも長文だったといいます。 このときすでに肋膜炎をこじらせていた放哉の体は、すっかり衰弱しきっていたようです。京都の病院に入院すればどうか、という師の勧めに、放哉は断りの手紙を送っています。 「~何卒『詩人』として、死なしてもらひたひ……(中略)此の庵……を死んでも出ない事……之れ丈が、確実な決心であります……。」

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.39〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.38〉

          いやな毎日をおくっていれば、いつしか自分をなくしてしまうだろうなと、若い時分、そんな思いを抱いていました。自らの信条に反する行いが、自分をなくした情態だと。 しかし、世の中そんな甘くはありません。仕事のえり好みなど許してもらえるはずもなく、嫌いな仕事もたくさんしてきました。 サラリーマン生活を終えたいま、放哉のこの句に接し思い至ることは、人は自分を探し求めなさい――ということでした。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.38〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.37〉

          東京新宿の林立する高層ビルの下で、ネズミに食べ物を与えているホームレスの男性を見た写真家の内藤正敏さんは、こんな意味のことをどこかの雑誌に書かれていました。人間性が薄れた東京の大都会にあって、まだこうした人間味を感じさせる行為があることに安堵した――。 人はときに、魂の孤独を小さな生き物に癒されてきたのかもしれません。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.37〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.36〉

          鳥取の町を歩いていたとき、ふと見上げると一羽の鳶が大きな輪をかいていました。山陰特有の重たい雲の空の下で。しばらくすると鳶は、海のある北の方角へと飛び去って行きました。 鳶が自由に舞う空のように、放哉にとって残された紙は自由と孤独を表出する”場”であったのでしょう。 1885年(明治18年)、現在の鳥取市吉方町で生まれた放哉は、第一高等学校法科(東京)に入学するまでこの地に暮らしていました。残された書簡などをみると、どうも放哉は故郷鳥取の地を好んでいなかったようです。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.36〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.35〉

          種田山頭火の句に「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」があります。風に揺れる秋草に耳を撫でられながら聞く虫の音もまた友の如く……そんな対象に肉薄したような一句です。一方、放哉の句は虫の音がひときわ淋しさを際立たせているように感じます。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.35〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.34〉 須磨寺逍遥

          須磨寺の大師堂の裏手の壁には、三十三間堂の雷神像を模したレリーフがありました。その近くには絵馬の棚もありました(写真下)。なぜこんな淋しいところに設けられているのかわかりませんが、絵馬には、いろんな願い事が書き込まれていますから、その配慮からかもしれません。 須磨寺は源平合戦の名勝地でもあります。平敦盛の首を洗ったとされる大師堂前の池には放哉の句碑があります。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.34〉 須磨寺逍遥

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.33〉

          この句が詠まれたのは1918年(大正7年)、放哉33歳のときです。同年2月、放哉は師の井泉水に宛てた書簡に、「これからの俳句は『芸術より芸術以上の境地を求めて進むべきだ』と抱負を述べています。 ちょうど第1次世界大戦が終結した年にあたり、政治経済はもとより、文化芸術においても新たな変革の機運が、国内外で高まっていた時代でした。 井泉水主宰の俳誌『層雲』が創刊されたのは1911年(明治44年)でした。 井泉水の手による創刊の辞は、そんな時代の思潮をよく表していると思います。

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.33〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.32〉 須磨寺逍遥

          放哉は寡黙で厭人家だった反面、師や弟子、あるいは波長のあう人物には真摯に向きあっていたことが当時の書簡から伺えます。 尾崎放哉全句集の巻頭にある写真は、いまから100年前に撮影された放哉39歳のときの肖像(写真下)です。須磨寺の大師堂前でポーズをとる放哉は、腕を組み、ほくそ笑むような表情を浮かべ遠くを見ています。そして、どこか尊大なムードさえ漂わせています。 この写真の撮影者は、京都の鹿ヶ谷にあった修養団体・一燈園で知り合った東京の大学生でした。一燈園時代、大学を辞めるか否

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.32〉 須磨寺逍遥

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.31〉 須磨寺逍遥

          放哉が神戸の須磨寺で過ごしたのは、1924年(大正13年)6月から翌年3月。この間、同寺大師堂の堂守をしていた放哉は、師の井泉水に宛てた葉書でこう書いています。「私は……一日物も言はずに暮らす日があります、知人は一人も無きことゆゑ無言でゐる事が大へん気持がよろしいのです……」 ようやく得た「独居無言の生活」に満足している様子が伺えます。 大師堂でロウソクやおみくじを売っていた放哉は、参拝者がいなくなる夕方や雨の日などに句作に専念していたそうです。 炎天でみた句碑の光景 須

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.31〉 須磨寺逍遥

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.30〉

          船はどんな乗り物よりも旅情を感じさせてくれます。船窓から遠く港の明かりを見ていると、どうしたわけか無性に家が恋しくなったものです――。 放哉が日本から朝鮮半島へ渡ったのは、1922年(大正11年)37歳の5月でした。不退転の決意をもって旅立った放哉でしたが、思うに任せず翌23年秋には帰国の途に就いています。途中、妻の馨に心中を迫ったという話ですが、その真意は定かではないそうです。ただ、失意の底をさまよっていたことは、当時の年譜からみて想像に難くありません。 放哉のこころの汽

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.30〉

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.29〉 独居無言のなかで

          神戸・須磨浦海岸のベンチに腰掛け、お昼をとっていました。しばらくすると雀が一羽、また一羽と近づいてきました。なにもされないとわかると一気に距離を縮めてきました。その群れの中に足の不自由な雀がいました。一本足とまではいきませんが、片方の足指がなく、これでは電線にとまることもできないにちがいない、と思われました。 米菓子を砕いて、その雀に放り投げました。しかし、どうにも動きが緩慢なために、ことごとくほかの雀たちに横取りされてゆくのでした。近寄って与えようとしたら、パッと飛び去って

          100年の孤独/放哉に想う〈Vol.29〉 独居無言のなかで