武重謙 ヒグマ猟記2「獲物を喜ぶ後ろめたさ」後編
移住前は関東でシカやイノシシの単独猟に取り組んでいた。
はじめての狩猟で右も左も分からないながらのスタートだった。たまたま家の周りをイノシシがうろちょろする環境だったこともあり、イノシシなら獲れるだろう、という今思えば甘い考えがあったのだが、始めてみるとイノシシは獲れず、シカばかり獲れた。
始めはシカを獲れば満たされたが、シカがコンスタントに獲れるようになると「いやいや、俺はイノシシを獲りたいんだ」という気持ちが高まり、シカを見つけても見送り、イノシシ追うようになった。
鉄砲を手にした1年目、まったくの偶然でイノシシを獲った。獲物の捕獲はいつだって、運と“読み”が入り乱れると思っているが、このときのイノシシは100%運だった。とはいえ、とにかく自分の鉄砲で撃ち仕留めた初めてのイノシシはとんでもなく旨かった。
2年目の猟期になり、さらにシカを獲り進めた。この頃になるとシカを獲ることに(少なくとも感情的には)慣れつつあった。
「よっしゃー!!」
という両手を振り上げて喜ぶような感情は減っていき、獲物が倒れるのを見て「良かった。今日もうまく仕留めることができた……」と静かに安堵する感覚が増した。
発砲から回収まで冷静にことを進めることができるので、狩猟者としては “ここから” だと思った。冷静だからこそ、学ぶこともあり、研鑽すべきことも見えてくる。自分の至らない点も見えてくるし、この頃になってようやくベテラン猟師と呼ばれる人たちの凄みが分かってきたと思う。
そうやって気を引き締める一方で、物足りなさも感じていた。やはりイノシシを獲りたかった。命に優劣や上下だなんてない、と言いたいところだが、やっぱりイノシシは特別だった。
そして「シカよりイノシシだ!」とさらに根詰めてイノシシ探しに奮闘した。宣伝になり申し訳ないが、この頃の話は拙著『山のクジラを獲りたくて』にて詳細に記したので、そちらを参照してほしい。イノシシを探す合間にシカも獲ってはいたが、獲る喜びはイノシシの方が大きかったことは認めざるを得ない。
そうして、なんだかんだとこの2年目の猟期にイノシシを2頭獲ることができた。それは山奥で、ひとり咆哮を上げるほどの喜びを与えてくれた。拳をあげて、天を仰ぎ喜んだ。
その喜びが、後ろめたかった――。
▶︎3へ続く
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