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武重謙 ヒグマ猟記4「ヒグマがUターンする痕跡」前編
12月に入り、すこしまとまった雪が降った。
地域柄、一気に深雪となることはないが、どうやら根雪になりそうな予感はあった。昨晩からハラハラと静かな雪が降り続けた。
日が昇る前から車を走らせ林道に入っていく。ヘッドライトに照らされた雪の林道にはシカやキツネの足跡が点々と現れては消えた。少しでもヒグマの可能性があれば、スピードを落として確認するが、それらしき痕跡は見つからなかった。通い慣れた林道で、道の凹みの1つ1つでさえ記憶している。
林道の終点に車を停めて、外に出る。空気が冷えて張り詰めていた。ブルッと身体が震える。空はぼんやりと明るさを増しているが、日の出の時間まではまだ5分はあるだろう。法律で、日の出前の発砲は禁止されている。荷物をまとめ、水筒に入れていたコーヒーを飲んで時間を過ごす。
探すのがエゾシカならば、日の出前から歩き始めてしまうのだが、万が一にでも日の出前にヒグマに出会えば面倒なことになる。そこでいつも日の出と共に行動を始めるようにしていた。
長時間の山行になることも想定し、十分な道具を背負って行く。昼食に加えて、予備の食料も背負う。水も多めに持つ。野営することを想定しているわけではないが、万が一に備えて軽量なタープや火おこしに使うライターなどは荷物に加えている。
また水が足りなくなることを警戒し、ナベや飯盒も背負う。もちろんほとんどの場合は使わない。この感覚をうまく説明できる自信はないのだが、ヒグマを獲ろうと思った瞬間から、漠然と「いつか無理をしなくちゃいけない場面はあるだろう」という気持ちがあった。必要ならビバークしてでも——。そういう気持ちで荷物を背負った。少しくらいの重さはむしろ心地よかった。
じつのところ「必要なら無理をする」の意味なんて1mmも分かっておらず、ある意味で、重い荷物を背負っていることで自己肯定感を高めていたような気がする。長く歩くこともそう。
これだけ歩いているんだから——。これだけ荷物も背負っているし——。ビバークの覚悟もしているし——。
だから獲れるはず。獲るための手がかりがないから、こういう本質とは関係ないところで虚勢を張るしかなかった。
ずっしりとした荷物を背負い出発する。積雪10cmといったところだろうか。長靴のくるぶしまであるかないかの深さである。歩くには悪くない。
すぐにシカの群れが歩いた跡を見つけた。何頭分だか分からないほどに足跡は重なり合い、迷うことなく一直線に奥へと向かっていた。
風もなく、静かだが着実に雪は降り続けていた。宙を舞う結晶が朝日でキラキラと光った。さほど時間が経たないうちに、キャップのツバに雪が積もり始めた。
谷間の廃林道に沿って歩いていた。廃林道は笹藪が薄く歩きやすい。そのためいろんな動物の通り道となっていた。シカの踏み跡に交差するようにキツネが歩き、ときにリスのか細い足跡が木と木を繋ぐこともあった。
そのうちシカの道はそれて、川を渡り、隣の尾根へと向かって行ったようだった。こちらは構わず北を目指す。前にヒグマの足跡を見つけたのは、ここから更に北上した開けた谷間である。この雪という絶好のチャンスを活かすならここ、と決めていた。
いつしか足跡らしいものは何も見えなくなった。シカ、キツネ、リス、うさぎ……そういった動物の気配もない。静かすぎて、山の生き物がすべて消えてしまったような気がした。
廃林道を進むと、一部、笹藪がうっすらと繁る場所がある。濃い藪でもないので、手でかき分けながら抜ければ、まだ廃林道が続くのを知っていた。以前にもシカを追って何度も通った場所であり、いわば慣れた場所である。その入口で立ち止まる。
これまで気にせず抜けていた場所ではあったが、ヒグマの存在を意識すると、藪は強烈な恐怖感を生む。藪を抜けたらヒグマと鉢合わせ……という事態が1番怖い。
背伸びしてみたり、座ってみたりして、どうにか藪の向こう側を見通そうと悪あがきをする。さほど濃い藪ではないので「どうやらいない気がする、たぶん……」という程度には安全確認が出来たところで、意を決して腰を屈め、藪に潜っていった。
藪は5mと続かず、開けた。道はまっすぐ続くが、どうやら何もいない。
ふと足下を見たとき、背筋に冷や水を垂らされたような思いがした。
ヒグマの足跡があった。足跡はこちらに向かって歩いてきて、藪のあたりでUターンし、歩き去っていた。
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Profile
武重 謙(たけしげ・けん)
1982年、千葉県出身。自営業。システムエンジニアを8年勤めたあと退職。海外を2年間放浪後に神奈川県箱根町に宿泊施設を開業し、その傍らで狩猟を始める。2019年に北海道稚内市へ移住し、宿泊施設「稚内ゲストハウス モシリパ」をリニューアル開業。単独で大物を狙う忍び猟を好む。小説の執筆も行い、池内祥三文学奨励賞(2012年)を受賞。著書に『山のクジラを獲りたくて――単独忍び猟記』(山と溪谷社)がある
ブログ「山のクジラを獲りたくて」https://yamanokujira.com/
ツイッター @yamakuji_jp
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