特別インタビュー 羆撃ち 久保俊治(後編)
聞き手=『狩猟生活』編集部(収録日:2016年11月1日)
引き金を引くということは?
命を取るということは、すべてを利用してやるんだ、責任をもつのだ、ということが前提でないといけないんです。
野生動物の生きている価値を出すのは、人間と違って死んでからでしょうけども、それが肉であって、皮であって、毛であって、全部なわけですね。命を途中で絶ってしまうわけだから、そこで生きていた価値を出してやるにはどうしたらいいかをちょっと考えると、どうやって獲ったらいいか、ということになると思うんです。
――久保さんは、ヒグマを山から下ろすのに、長い山道を何往復もしていますよね。たとえば、300㎏のヒグマを現場で解体して50㎏に分けたとしても6往復かかります。とてつもない労力だと思います。
それに、1頭目を下ろしているときに、2頭目に会ったときに引き金を引かなかったのは、1頭目に対する責任があるということですね
一番食べてうまい時季に、きれいに斃して処理して、だれが食べてもうまいっていえるだけのものを獲る。そいつが生きてたんだ、ということを十二分に発揮できるわけです
――処理が悪くてまずいものを食べた人は、野生動物の肉はすべてクセがあってまずいものだと思ってしまいます。そのあとは、積極的に食べようと思わなくなくなってしまいますね
カモにしてもほかの獲物にしても、猟歴が長くてある程度きちっとしたものの考え方をした人……私が子どものころに親父がついていた師匠のような人が獲ったものは、何を食べてもうまかったですね。やっぱり猟歴と腕やものの考え方によって、十二分にうまさを生かせるものをつくれるんだということだと思うんです。
私が誇りとしているのは、私が獲ってきた肉は「シカ肉でもうまい」「久保さんは、獲ったあとの処理がしっかりしてるんだね」といってくれることです。
――処理の方法とは、どのようにするのでしょうか?
獲ったらすぐにお腹を割く。例えばシカだと、斃れて心臓が動いていないのに血抜きをすることはありません。それだけ、肉が傷むからです。早く腹を開けて、腹腔にたまった血を出してやる。それをしないと、どうしてもうまくなくなる。それに、獲るときは、相手を昂奮状態にさせないことも大事です
――昂奮状態になると、どうなるのでしょう?
アドレナリンが出て、おいしくなくなります。
――『羆撃ち』のなかに、シカを撃って半矢になって、それをずっと追っていった、という記述があって、それを獲って腹を開けたら肝臓がダメになっていたと書いてあります
肝臓の色が変わって、肝臓の味がしなくなります。スノーモービルで追って、撃つのも同じようになると思います。
――相手に気づかれずに撃つのが理想なんですね
なかなかそううまくはいかないときもありますけれど、そうですね。大物の場合は、バーンと撃って斃したら、ちょっと動いたからって、すぐに次を撃たないことなんです。その動きが、いい所に当たった動きなのか、判断がつくような猟の方法が大事です。
去年のちょうどいまごろでしょうか。サケが多かったので川の近くにクマの足跡を見に行ったとき、ガシャガシャと音がしたので見てみると、オスジカの角が絡み合って取れなくなっていたんですね。しばらく見ていたけど、これはもう外れないなと思ったから、撃ったんです、近くから。
普通なら、当たってすぐに反対側に血が飛びちったりするけれど、あれだけ昂奮していると、血が飛びちるのが遅れるんですね。筋肉がかたまっているからなんでしょうね。ああいうのから見ても、昂奮状態というのはすごいんだなと思います。
――リラックスしているのとまったく違うんですね
そしてあとは、獲物を獲るということは、ある面で動物に好かれないとだめでしょうね。それは、昔からいうように2派あるんです。
山の神がいて、出産を助けなかったほうと助けたほうの差が出てくるわけです。獲物を追っていて出産を助けなかったほうは、それから猟果はなくなった。ちゃんと、助けてあげたほうが、その後の猟果に恵まれた、という話がいたるところにあるわけです。
山の神さまで、そういう血のようなものを嫌うという話も基礎にはあるにせよ、助けたという言い伝えがずっと残っているのは、そういうことだと思います。相手に対する、思いやりや慈しみっていうのが大事なんだということを教えているんだと、私は思っています
――都会にいると、困っている人を見て見ぬふりが多い時代ですが、なんだか、あらためて考えてしまう部分ですね
生きものを殺すのに、なにが慈しみなんだ、という考えもあると思います。だけれど、狩猟サミットでも「久保さんはあれだけ犬を飼っているのに、なんでほかの動物は殺せるのか?」というのを疑問に思っていた人もいました。それは、いま言ったようなことだ、というのを伝えたら理解してくれました。
いまの日本では、お金さえ出せばいつでも肉を食うことができる。それなのに、なぜ獲物を殺してまで食わなければいけないのか?という質問もあると思います。町場で買ってくるのは、肉を買うのであって、生き物を買ってくるわけではありませんからね。
私の場合、いまでも狩猟の獲物が食肉の8割を超えますから。そこの違いがあるかないかだと思うんです。単にかわいそうだ、ということで物事を片付けられますけれど、生きるということは、かわいそうという問題だけじゃないですから。
――肉を町で買う人も、だれかが命を取ることを代わりにやっているわけです
その責任をほかの人にかぶせておいて、自分だけいいとこ取り。いまの経済活動はいいとこ取りだから。でも、それを理解しているのと、理解していないのとでは、違いがなんとなく出てくるんじゃないかなと思います。
――その部分を、どういう表現なら多くの人にしっかり伝えることができるのかをつねづね考えているものの、子どものころから経験しないと、そういうものだというのが理解できないと思います
この前に少し言ったかもしれないけれど、例えば昆虫とかカエルとか、ある面で子どものころは無駄に殺しているようでいて、あるときに気づくんです。普通であれば、捕りすぎて死なせてしまって、ひどいことをしてしまったなと……
――親が「かわいそうだから、逃がしなさい」といわれても、子どもは、かわいそう、の意味がわからないですよね
そういうのを理解することが大事なのだと思います。それをやらないでいて、言葉で言われてわかっているのは、じつは本当のところをわかっているのとは違うことですから。でも、それを大きくなってやっているとおかしいけれど(笑)
――大人になっても、殺して終わりという人は、その部分が欠けてしまっているような気がしています。獲るのが楽しみなんでしょうけれど、放置してそのままにするのは理解できないです
日本人は農耕魚民族ですから。魚の活造りをやっていても、あれが残酷だとは思わないです。あれは慣れなんだと思うんです。特に日本では、ウシやブタは経済的に食べはじめたのは明治維新後ですから。ブロイラーも新しい。そのへんも何も考えないで、当たり前としているのが面白いです。
7世紀の始めぐらいには、狩猟法のようなものができて、五畜を食べてはいけないとかね。律令制のなかで、食べるのが禁止されていたということは、かなり一般的に食べられていたはずなんです。だから、それを制度で禁止しなければならなかったんだと思います。
――食べていなければ、そういう議論にならなかったはずですね。最初の話に戻りますが、引き金をひくということをもっと真剣に考えないといけないですね
そうです。うちの親父は日曜ハンター、いわゆる趣味の狩猟者だったけれど、金曜の夜になると弾づめをするわけです。村田銃で狩猟を始めたような人でしたからね。カモ撃ち用に散弾を入れるときに、2、3発ポロポロって足すんですよね。あれは、いわゆる祈りだったんでしょうね。
いまは、祈りがないわけです。ある面であれが祈りで、猟に対する期待だったわけです。そういうふうなものがないまぜになっていることが、私は大事だと思います。
Profile
くぼ・としはる
1947年、北海道小樽市生まれ。日曜ハンターだった父に連れられ、幼いときから山で遊んだ。20歳になってすぐに、狩猟免許を取得。父から譲り受けた村田銃で狩猟を開始する。'75年にアメリカに渡り、ハンティング学校で学び、その後、現地でハンティング・ガイドとして活躍する。'76年に帰国し、標津町で牧場を経営しながら、ハンティングを行う。著書に『羆撃ち』(小学館)、『羆撃ち久保俊治 狩猟教書』(山と溪谷社)がある
※当記事は『狩猟生活』VOL.1「羆撃ち久保俊治」の一部内容を修正・加筆して転載しています。